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あっちこっち

おれはおれのままでよかったんだ。
電話の向こうで泣きながら笑う声を聞いてそう思った。その顔が見えていた。今あるものでやりくりするしかないのだ。それしか方法がないのは足りないからではなく、それで充分だからだ。泣きながら笑う顔はなんともいえなくて、なんともいえないことをおれに伝えてくる。そのままを表現している。木になったリンゴをもぎってかぶりつくようにそのままを味わいたい。知っていることではなくて、その時その瞬間の新しさを。

遠回りをしてうねうねと蛇行した道を歩いた先に元いたところに帰ってきていた。それは旅だった。同じ場所でも本当は何もかもが違っている。何よりわたしが違っている。食べてきたもの見てきたこと聞いたことすべてがわたしを通りすぎて形を変えて、残ったものをわたしと呼ぶ。同じリンゴは二度と作れないのだ。手を加えることはできてもリンゴはリンゴが自ら作るのだ。あの赤を同じ赤に見る人はいるだろうか、世界のどこかにはいるかもしれない、そしてその人とは永遠に出会うことはない。すれ違っても隣にいたって気付けやしない。それは悲しいことだろうか。
「おれにはわかるよ」
夜明け前の、すっぽりとどこかにハマったような時間は静かにそのまま運ばれていって、いつの間にかパステルカラーの水色と桃色のぼやけた雲が浮かんでいる。今日はじめての飛行機がさっき飛んでいってさっそくサイレンを鳴らしながら救急車だかがどこかへ急いでいる。街が起きて、眠っていたのかも知らないが、車が走っている。鳩が向かいのベランダに集まって朝ごはんを待っている。柵の上に七羽いたのが八羽になって今は六羽。その下に七羽いたのが三羽になった。待っていなかったのか。部屋の住人が窓を開けて何かを蒔いて餌をやるのを見た朝があったから待っているのだと思った。柵の上に今は九羽だ。部屋のベランダに鳩が溜まっていたらおれは嫌だな。だから不思議というか、人の好きなものなんてわからないものだ。彼の見る鳩とおれの鳩はまるっきり違うものだきっと。
あと数時間で仕事か。何も予定のない時間と仕事の前の時間だってまるっきり違う。どちらが長いだろうって簡単に決まるものじゃないけど。窓を開けて白いパン屑か何かを彼が放った。一斉に鳩が群がって、もう何匹かわからない、どこからか加わったスズメたちも餌を啄んですぐに飛び立っていく。鳩はヘコヘコと食べ続け一匹一匹ベランダのへりから飛び降りていく様に飛んだ。遅れてきた一匹が残った二匹がうろちょろする様子をしばらく見てから飛び去っていった。鳩の世界も楽じゃない。どこだって早い者勝ちだ。
会いにいくのは得意じゃないから会いにきてもらうことにした。そのための空間を作る。まずは匂いだ。匂いは漂って他の空間に届いていく、そろそろと音もなくそこに忍び込んでいく。忍者だ、忍びだ。忍び込んで鼻の粘膜からのめり込んでいく。暗いけど暖かい道をするすると進んで出会う記憶。暖かい空間。手触りがあってでも触れられない。だから暖かいのかもしれない。無数の空間があるのだ。新しく作らなくていいのかもしれない。そこに触れられれば充分なのかもしれない。空間は思い出すだけでいいのか。再現はできない、同じ場所は二度とやってこないのだ。覚えていることを感じるように。回り道を歩いて、池の周りを一周して帰ってくる、戻ってくる。

ヘトヘトになろうとしてもなれないものだ。夢の中で歩くからいつの間にか心地よい疲れに包まれる。目的はない方が良かった。またサイレンがなってどこかで悪いことでもしている奴がいる。腹がなった。減っていても食う時間はない。もう時間だ、まだ時間はあってもないと思ったらもうないのだ。それまでにどこまで済ませられるだろうか。脳の髄まで疲れきるまで力を残らず使い切らなければ。余らせても仕方がない。ドライブしていく流れに勢い任せで乗り込んでいく。行き先は必要ない、行き先がない方が良いのは知っている、その道は面白い。同乗者はいない。だから目的が生まれない。そこにも空間が、時間がある。景色は猛スピードで飛ぶ様に流れていく。作る必要もないのに。出来上がって新しく生まれてすぐに消えていく。ただ進む。速度を上げると、生きている実感はこれだと思った。それは錯覚だがそう感じているからしょうがない。ただ進むだけだ。わたしも次の瞬間には先へと流されて、止まるものは何もない。もっともっとはやく。追いつけも追い越しもできない。なんだっていい。それなら誰でも走れるはずだ。道なのかどうかもわからない、走れば道になる。嘘でもいい。嘘だからいい。どうせ全部嘘なのだ。ぶっちぎれ。カーブはない。林も森もぶち抜けてまだ進む。もうハンドルも無くなっていた。いつの間にかわたしだけが。わたし自身が走っていた。姿は滲むように周りも歪むように、水面に映るようにぶれている。まだスピードは上がる。上げてもいない。上げるわたしもいない。そこに境目がなくなっていく。それでも決して交わらずに。滲む様に消えていくわたしでもない、それは光だ。光なのに色がある。色はあるのか、人にはでも見えない色。光には色がある。見えない色。わたしは色になっていた。走るほどに色がついていく。周りの色も滲んで、交じらないけど混ざりたがっている。でも今じゃない。今は交わるときじゃない。古臭いボロボロのあのスーパー。寂しい。寂しさを纏いすぎている。その色じゃない。もっと走れば。もう飛んでいる。飛ぶ様に進んでいる。後ろに今は色がない。振り返りはしないできないからわからない。でも色がないことはわかった。前だけに色がある。だから走らなければいけない。もう足はない足は滲んでしまって、もう混じり出している。もっと急がなければ、全部が混じってしまう前に。そこに向かっているかはわからないけど辿り着く必要があった。それはわかってる。幻影。まじったら幻だ。幻になってしまう前に辿り着かなければ。ほとんど光になって、ある瞬間に消えた。

「おれにはわかるよ」
「ほんとに」
「本当てなんやろね」
「わかんない」
「わかんないのが本当かもしれん」

もう時間だ。仕事だ。仕事と呼ばれる動きをして、そしたらお金がもらえるんや。
お金で食べるものを手に入れて、ここにいてもいいってなるらしい。便利な、便利ってなんや。ようわからんけどそうやって回っている。システム。回っているものをシステムと呼ぶ。回るからシステムになる。その中におれもお前も混じっているわけや。知らんうちにな。その外はみたこともない、誰も見たことがないからあるかわからんけど、わからんからきっとあるんやろうな。宇宙の外?それも知らん、あるんやない?あったらいいなあ。わからんてのは面白いなあ。中にいたら中におることもわからんからな。それでいいのかもしれん。それでなきゃ上手く回らんてこともあるやろうし。そしたらもういくわ。仕事や仕事。終わったらまたあとでな。ここにおるんやろ?わからんか、まあ大丈夫やろ。すぐにな。じゃあいくわ。

「もういったらいいやん」
外ではドア越しに酒盛りで盛り上がる声が聞こえ、離れたところでどぅんどぅんと重低音が鳴っている。ああ金曜か今日は。携帯で日付を確認した。曜日の関係がない暮らしは好きだ。たった少しの半歩くらいの距離で社会と離れていられる。酔ってふらつく人の間を歩いてタバコを買いに商店に行く。コンクリート剥き出しの床は田舎の小さな商店を思い出させる。ラックに煩雑にスナック菓子やせんべえが置いてある。その雰囲気が好きでよくここでタバコを買う。中国人のおっちゃんが気のない接客で心地がいい。つんけんとも違うやる気のなさがアジアでの旅を思い出させて懐かしく、心が軽くなる。目当ての最安のタバコをくれと言って、それでもこの国ではバカみたいに高くそのほとんどが税金だ、緑の袋に入ったスリムフィルターも欲しかったが見当たらなかった。在庫はあるかと聞くとないと言うから明日はどうと尋ねた。週末だから来週だな。タバコだけくれと言ってレジ脇のライターが目に入り、幾らかと聞いて安くも高くもなかったがなんとなく買った。なんとなく何かを買うことはほとんどなくなっていたから、珍しいことだ。あれとこれが必要だと決めて買いに行くことがほとんどだし、無駄なものを書く余裕もない。ライターも必要なものだから、どうせ使うだろうしという打算はあっても、その自然と出た自分の動きが今思っても新鮮だ。なんとなくてのは大事で面白い。そのおっちゃんも店も居心地がよかったから、そのなんとなくが出た。書いていてそれをそうだとしっかり感じた。そういえばその時には今日が金曜だと気付いても良かったはずが聞いてはいても聞いていなかった。聞こえたというほど人ごとじゃなかった。それでも聞いていないことは人にはある。少なくとも僕にはあった。こうして思い出す機会があったから、思い出した、聞いていたことを思い出したわけで、そうでないなら、僕の中ではなかったことだ。体は聞いていたかもしれないけど。毎日書いているから、これからは聞いていないことは減るかもしれないが、今までどれだけのことを聞いていなかったのだろう。そこには大事な大切なこともきっとあったはずだ。きっといくつも。聞こえなかった女の声と電車と雑踏の騒がしい音、開きかけてつぐまれた君の口とその目、何も言わなかった言葉もなく背を向けて歩いていく友達。光景の記憶があればいい方だ、何かのきっかけで思い出すかもしれないし、捏造だって勝手にされる。景色も音も痕跡のない、誰かの言葉を僕はいくつも聞き逃した、聞いていなかった。その事実が怖い。覚えてもいないのに。あるかもわからないのに。大事なことを伝えようとしていたのではと、どれだけの言葉が届かずに踏みつけられぐしゃぐしゃになってしまったのだろう。たとえ僕に向けられなかった言葉でも。その言葉を丁寧に優しく拾い集めてもしょうがない。もうとっくに冷たくなって持ち主も現れずに、土にだって還らない。ごみにもなれないそれは異物だ。社会にとっての世界にとっての異物だ。転がった異物を集めて僕は家を作った。毎日街を歩いては誰にも見えず見られずに道に転がるそれを一人で静かに集め続けた。いつしか街を歩いても誰の目も男を見ていない見えないように感じて、実際に誰も見ていなかった。街の人は急ぐことに必死だった。僕は出来上がった家に住んで、そして死んだ。僕は幸せだった。それは決して見えなかったけど、あたたかさがあった。異物の家はいつまでもあたたかいままだった。

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