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怠けアリのアメ玉

ゴワゴワとした頭の中を洗ってしまいたい。しかし洗ったとしても絡まり合ってこんがらがったまとまりは解きほぐせないだろう。女の髪のようにサラサラとは流れない。小川の澄んだ水でも洗い流せない。長い時間でしがらんだ固まりは同じ時間で解きほぐす必要がある。そんな時間はなかった。その前に死んでしまうのがオチだ。それは幸運かもしれない。誰にも本人にさえその答えはわからない。火種を包んだ藁から白い煙が上がるようにタバコの煙が脳みそを、思考の間をただすり抜けていく。太陽は頭上高くに昇っていて時計の針は重なったところでピピっとなった電子音でそれを見た。昨日の夜中の記憶と今の光景がヘドロのようにゆっくりとどろどろ溶け合わさっていく。その時に僕を初めて認識する。それは一瞬で、すぐにどろどろのまどろみの中にかえった。僕はそこに混ざって溶けていった。あたたかい。風もあまりなくて穏やかだ。何の音かわからない街の音が平坦にリズムもなく聞こえている。ここがどこかはもはや関係のないことだった。さっきまでタバコを吸っていた男はわたしのそばの灰皿に吸い殻を捨ててここにはもういない。まだ何も食べていないが腹は減っていない。何かを食べたらきっとおいしいだろうという思いはある。思い出したように時折優しく吹く風は小川の水のように冷たくて、風とじかに触れ合う肌は微かに僕にわからないほど小さく振動している。心地よいのか不快なのわからない刺激を楽しんでいる。時間がまるで流れていないような顔をして僕のまわりにたまっている。飛行機と車とはしごと鳥の音がする。何か判別できない音も無数に聞こえる。聞こえるというよりそこでしている。無限にも感じられるたくさんの音がしている。僕は起きてからまだ一度も声を、音を出していなかった。風がさざなみのように顔を、むき出しの手を撫ぜる。また飛行機だ、こんなに飛行機は飛んでいるものなのか。何か喋り声が、人の声がした、聞き取れないほど短い音で、その後すぐにパトカーの音がしてまたすぐに止んだ。手から伝わったさざなみが服の中に入り込んでくる。腹はまだあたたかいままだ。タバコを巻くと腹が減ったと気づくが煙になって消えていった。鳥がまた鳴き出して、二匹か三匹かいる。小さいから、小さそうな鳴き声だから、匹だ。うんと近いところを飛行機が通ってうるさい。大きい音は好きじゃないから、うるさかった。組んでいた足をなおして体を伸ばすとパンと音がしてタバコが落ちた。ポケットに戻すと右足が痺れていてでもすぐになおった。火が消えてタバコに火をつけ直した、これで七回目だ、もっとかもしれない。さっきいた男が後ろを通っていった、またタバコを吸っていたのか、気づかなかった。時間は流れている。少しずつ流れ出していた。僕のまわりでも、ゆっくりと、ヘドロのように。カップを手に取るともうコーヒーはなくて、底に澱のようにカスがへばりついている。砂で描いたような模様は便器に座った女がリクライニングの座席に預けるように背中を伸ばしている。背もたれはなかった。同じ男が後方のドアから出てきてそのまま別の入り口から中へ戻っていく。また電子音がピピっとなって一時間が経ったのだ。短い針が一つ進んでいた。少しだけ僕は驚いた。これでタバコは三本目か。二つの吸い殻は目視できる。一つは地面に落ちて転がっていて、もう一つは椅子にのったままだ。もっと吸った気がするから、灰皿に捨てた分もあるかもしれない。喉は渇いているし、腹も減った。太陽はたぶんさっきより上にのぼった。さっきとは二つの針が重なっていた時、つまり一時間とちょっと前だ。前?後ろにあれは行った。前ではなくて後ろに「さっき」は行った。そして僕は今、今もここにいる。まだここに、これから先もずっとおそらくここにいる。そしていなくなる。ブレーキを踏む音がする。数秒の長いゆっくりとしたブレーキの音。何か大きくて重いものが止まった、大きいかわからないが重いものが止まった。バタンとドアを閉める音が聞こえる。それがその重いものの音かはわからない。自然とタバコに火をつけ直していた。もう何回目かわからない。全然人の声がしない、今日は日曜日のはずなのに。たしか日曜日だったはずだ。飛行機がまた飛んでいる、ひっきりなしだ。ひっきりなしに飛行機が飛ぶことなんてないから、本当はひっきりなしじゃないだろうがそう感じる。音が遅れて聞こえている。音はそのまま空気を揺らして僕に届いているから遅れてなんかいないが、遅れている音だと僕は思った。何だかわからない街の音は川のように時間のように聞こえ続けている。聞こえた時にしか聞いていないがそれはずっと流れている音だ。太陽が動いて木の影に入ったから椅子をずらす。背中が冷え始めたから両手を椅子と腿の間に挟んだ。何か食べればあたたまるだろう。今日はグラタンだ。目が覚めた時にもグラタンが頭に浮かんだのを思い出した。長い針は真下を少し過ぎたあたりを指している。いつも風に揺れていた木が、ほとんど黄色でまばらに緑がまざった葉のついた木が静止している。枝をめいっぱい広げた大きな木は五階の高さまで届いている。そしてまた風に揺れている。

遠くに立つスカイタワーは微動だにせず注射器のように尖ったアンテナかなにか、先端を天に向かって突き立てている。巨大な街の虚像がのっしりと起き上がって注射器を引っこ抜きその静脈に突き刺すと、狂ったように興奮した神経が混乱したアリたちのように騒ぎ出す。そのアリがわたしたちだ。どんな働きアリの中にも働かない怠けるアリが混じっている。働きアリだけを集めてもそのうちの二割のアリは必ず怠けアリになる。その怠けアリが今これを書いている。うんうんと唸って二時間も書いていても働きアリから見れば働かんや馬鹿野郎という話でそれは至極真っ当で正しい意見だ。そして怠けアリはまた腹が減ったと言ってタバコを吸うのだ。ほとんど寝ぼけ眼で寝ぼけた頭で閉じた目でほんの少し動いた頭で書いた文章はなんの意味もない。意味とはなんだという話になるが怠けアリはそんなことは考えない、考えてはいけない、考え込んでは怠けアリではなくなってしまう。せめてただ書くくらいにとどめておかなくては。さっきまでが嘘のように、決して嘘ではないが、すらすらと言葉が出てくる。時間の流れがまるっきり変わってしまう。そこに同じ時間は流れていない。時間の質どころか、「時間」という言葉で同じには括れない、まるっきり違うものが、空間がそこにはあった。それを楽しめるのが怠けアリの特権である。それは二時間とされて区切られるが、その定規で測れば5分と言われても、そうだと答えられるものだ。不思議といってもいいそれ。歪んだ、ヘドロのように混ざり溶け合った時間と空間。そこにいるわたし。例えば時間を決めて、一息で文章を書くことは楽だ、それでいて楽しい。今この時も楽しい。流れる川のようにそこに流されるようにわたしが川になって書いていけばいいのだ。ヘドロの中でもがくように、息をする間を探すように書かなくていい。いやむしろヘドロの中で苦しんだからこそ、清流を泳ぐ今が楽しいのかもしれない。ヘドロで塗れた、汚れた体が澄んだ水に洗われていく。苦しみがあるから幸せを感じられるなんていうが、しかし苦しみにずっといても苦しいままだ。慣れることはあるだろうか、ただ苦しみに巻き取られ覆われていくだけな気もする。しかし山があるから谷があるのは本当で、上り階段の数だけ下り階段が存在するように、そのアップダウンが時には幸福のスパイスにはなるだろう。死んでしまったら終わりだが、終わりは救いでもある。流れに任せて適当に書いているから、よくわからない気もするが、今は流れに乗っていい、流れに乗ることが大事だ。流れるプールの楽しさはわからないが、この流れは行き着く先がないから面白い。適当というのも二つの意味を持つ。この流れも同じところを回っているだけかもしれないが、そんなことは考えなくていいどうでもいいことだ。なんたってわたしは怠けアリなのだから。二割の怠けアリにも存在理由があるのだろうというのが研究結果だ。たしかそんなことを見た気がする。間違っているかもしれない、間違っていていい。それは生存戦略だ、動物、生き物の摂理なのだとかなんとか。しかし怠けアリはもちろんそんなことを考えてはいない。それだから、それでこそ怠けアリなのだ。だから怠け者たちにも存在理由があるのだ、というのはいささか都合の良すぎる言葉にも感じられる。その通りだとも思うが。存在理由などいらないのだ。ただ生きてただ死ぬ、でいい。そう思えなくさせる諸々のウソに騙されてはいけない。蟻地獄はそこらじゅうに、見えない形という卑怯な手で張り巡らされている。ドツボにハマって抜け出せないうちに飲み込まれてしまう。地獄の真ん中にアメ玉が置かれている。なんて野郎だ。蟻地獄にハマって人が死んでいく。地獄の外は天国だとは口が裂けても言えないが、実際広がるのは別の地獄かもしれない、それでもそこで、ここで生きてみる。面白いかもしれないし、面白くないかもしれない。死ぬほど退屈かもしれない。どちらにしろ終わりはやってくる。アメ玉に最後はありつける。待った時間だけ、腹が減った分だけ飯は美味くなる。むしろそれが一番のスパイスだ、と聞いたことがある言葉を使ってしまった。しかし言葉なんて所詮ほとんどが使い古されたものばかりだ。わたしから出てくるものなんてほとんどボロボロのお古ばかりだ。それはしょうがない、悪いも何もしょうがないことだ。詩とは新しい言葉を、その使い方を見つけることだと今気がついた。それは素晴らしい、そして難しいことだ。見つけた瞬間、作り出したといってもいいその瞬間は、そしてそれが音となる空間は美しい。詩人でもないのに、その光景がありありと浮かぶ。もう面白いことを見つけた。この短い間に、新しい、面白いことに気づいたのだ。やっぱり人生は面白いことに満ちている。蟻地獄以上に面白いことはたくさん隠れている。いや隠れても隠されてもいない、ただそこにある。それを見つける眼を誰しもが持っている。発見できる、そして時間は今のところある。時間がなくなっても、それはアメ玉にありつく時だ。人生はご褒美だらけだった。怠けアリでも砂糖にありつけるのだ。ありがたいことだ。せめて面白いを見つけるぐらいは怠けアリにもできる。働きアリたちもそれを楽しみにしている。それは怠けアリの妄想かもしれないが、それが怠けアリの特権だ。

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