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雑多な時間

人といるのは煩わしい。色々が、いや何もかもが面倒だ。だから気がまぎれる、自分自分と過去やらのことを考えなくて済む。だから人は人と一緒に居たい。ひとりは辛い。だから一緒に居ようよって。決して消えない、変えられない自分の存在のあれこれ、過去も未来も刻まれた自分のことを考え続けるのは苦痛だ痛い、そんなものを好むやつはいない、変人だ。そこから詩が生まれる。のかもしれない、僕にはわからない。わかったふうに書く喋る。ずっとそうだ、生まれてから今まで。今見ている山、丘、空、飛ぶ鳥、風に乗っている、光。ありきたりな言葉が並ぶでもしょうがない、それが僕に入ってきて見えるものだ。コンクリートも飛ばす車も白線も飛び飛びの白線がインベーターゲームみたいに後ろに飛んでいくのも隣の声も全部ただ流れていく。そのまま無気力に体を貸してるとウイルスが全身に回って咲いてる花だって空の色だってどうでも良くなってぐちゃぐちゃにかき混ぜてしまう。そんなことはよす、もう大人だから。の嘘の言葉。考えるのも面倒なら使っちゃえで汚れがこびりついてく。

そう、人と過ごすことだった。摩擦で灰汁も喜びも取れて丸っこい石みたいに。
だめだ。誤魔化しても無駄だ。しにたい。しにたいが体の奥から広がっていく気配をそのうちに秘めて、じわじわと墨汁が水に混じるように、澄んだ生きたいを濁らせていく。考え方次第だと、その通りだと体でも頭でも経験でわかっているのに、止める私も何もない、そのままにしていく他ない。なぜだこの気持ち感情はと考えれば解される道筋が見つかるがダメだ、この気持ちにはない、黒い暗いぺったんこの丸があるだけだ。ぺたんこなのに中に吸い込まれる、平面なのに空間がないのに。
書いていると紛れていった。その程度のものなのか。ふとした瞬間に突然やってくる。目の前の空間がやけに素晴らしく輝いて見えてそれなのに一枚の透明な膜の向こうにそれは存在して触れることができない。美しい世界にわたしは含まれていない。だからこそ美しく見える。決して触れられないから、それは一つにまるっと完結していて閉じられていて輝いている。遠くにわたしが広がっていく。過去に引き伸ばされるように、しかしわたしはそこにしか今にしかいない、そして今にも含まれていない。一瞬の永遠の安心も束の間に、また泥のような、泥そのものがわたしだ。もがいても動いても何の形も取れない。形にとどまれない。時間もわたしも一緒くたの泥だ。

何でしにたくなるのか。人といることでだろうか。人と喜びを分つとき二倍どころか無限に広がる。それはその通りだ。悲しみだって何倍にもなってだから人生が彩られる。それはどちらも、どちらもあるから素晴らしい。そうだ人と関わるときにダメな自分と何度も出会うことで死にたくなるのだ。だめだお前は、死んでしまえと言うのも自分でその自分をやめればいい、きっといい方向に行く。そのときダメな自分はどこに行くのか、ダメじゃないから責めるなよと優しい声が、しかしダメなもんはダメだ、それをそのままに受け止めるしかない、クソみたいな過去も一緒に背負って。今更わたしは善人ですって面を下げてもしょうがない、ぐちゃぐちゃどろどろのままに人を自分を手助けするしかない、そうしたい。

久しぶりに書くと、三日か何日か空いただけで書く流れが滞っている。毎日流れる水路が汚れないように、堰き止められるほどに泥が溜まるように。毎日書くことだ、それは掃除にも似ている。むしろ書いていなかったから気持ちが沈澱して澱になって湧いてくる水を汚したのかもしれない。そんな簡単な話か、でも何もかもを人生をややこしくするのはいつも自分だ。いつだって解決の糸口を自分が知っている。むやみやたらに書き散らして自分が救われるなら儲けもんだ。人が助かる様を見て助かる人もいる。苦しみに同調するより明るい方へ苦しくても進む人を見たい。いや暗くても進む人を見たい。いけいけ行くしかないだろう、お前もどうせ死ぬ。ありがたいよな。

真っ暗の海に目が慣れて白く打ち寄せる波がぼんやり見えてきた頃には、夜の海の轟音にも慣れてきていた。着いてすぐ車を降りた時は、真っ黒の海からの轟音がただ怖くて恐ろしくて風の中すぐにタバコに火をつけた。呼吸するように繰り返し吸ってこれは死なんだと気づくと恐怖が薄れていく。音自体に死を感じてこれはやばい危ないと恐怖していた、そこに気づけば薄れていく、人はわからないものに恐怖する。夜の荒れている海は、いつも恐怖だ、そこに身近に死が付き添っている、だから怖い。死にたいと思いながら普通に当然に死にたくないと思っている。意味がわからない、書いていても意味不明だ。このまま飛び込めばまあ確実に死ぬ。でも、絶対に飛び込みたくはない。それなのに死にたいの黒い丸がわたしの中にある。これはどう考えたっておかしい。そう思ってしばらくしてこれを書き始めた。そしてもう飽きてしまっている、このことについて書くことに。死にたいも何もどうでも良くなっている、やったーそれならいいやよかったよかった。

毎日書くことだけが目的ならば簡単だ。それなのに滞るのは人との関わりの中でのあれこれで体力や時間が削られる、というさも納得できそうな言い訳に自分を丸め込んでしまうからだ。人間はいい加減でだから生きられるのだろうがその中でも特にいい加減
なわたしは簡単に「わたし」に流されてしまう、と書きながらわたしに流されているのか本当にと疑問が湧く。書きたいと思っている、書くと決めているのは紛れもないわたしでその邪魔をするのはわたしではない、気がする。そもそもわたしなどないというブッダの考えに沿うと環境によって鏡のように現れるわたしがその都度動かされ動いているのだろうか。理屈をこねても仕方ない。最近はすぐに飽きる、わたしの話も書いていてもういいやとなる。つべこべ言わずに書け、出ないと死んだも同然そして必ずいつか死ぬ。わかっているようでわかっていない、わかるはずもない、死んだことがないんだもの。

二日前に泊まっていたホテルをでた。都合一ヶ月はそこに住み働いていた。出発の色々やらで書く時間が取れずに、いや実際は書こうとすればいくらでもきっと書けたが怠けたというかだれていた。働くといっても日に数時間程度で金は減っていく一方でその分時間はあった。何時間でもうんうん唸りながらダラダラと書けたわけだ。酒というガソリンだってわたしに注ぐことができた。それが日々のリズムが崩れうまく時間が取れなくなった途端にこれだ。ほぼ毎日働いてクタクタになっていた頃に書こうと気力が湧かないのも怠け者には当たり前だった。日々の生活に時間も気力も吸い取られていく。たいしてやりたい仕事じゃなければ尚更だ。果たしてやりたい仕事なんてあるのだろうか、わからない。いつかは飽きそうだし、好きでも今日は仕事したくない日なんてすぐにやってくる。そんなものがないのが天職か、それも幻想だろう。ベーシックインカムとやらで働かないでも食べられるなんて正直そっくりそのまま信じちゃいないが、そんな生活でやりたいと思うことを今この時もしたほうがいいに決まっている。金が時間がないからやらないこと、やれないことではないそれは思い込みに過ぎないやり方はある、を今しない手はない。だって死ぬかもしれないから今このときに、というのは極論でしかし実際その通りだ。人は環境によってわたしが変わる、その都度にわたしがいる。生活にこき使われてやりたくないことばかりやらされると、何もしたくないわたしが現れる。その罠を抜け出しても金が時間がの言い訳はいくらでも作れる。本当に金や時間から解き放たれてその自由に恐怖する人もたくさんいるだろう。これはよく聞く話でつまらない、こんなことが言いたいわけじゃない。わたしは生粋の怠けもんだからどうとでも過ごせるだろう、いや酒ばかり飲んで体を壊すかも、と考えて運動を習慣にしてみたり、やっぱり楽しく過ごせる。それならば、そのマインドになぜなれないのか、この瞬間に。やはり現実とされるものの中に自分を押し込めている。これだけ自由に書くものの中には制約がないのに、言葉という制約はあってそれは大きなものだがそもそも考えることと言葉はセットだからしょうがない、そうだ思考の中だ。言葉で思考していても思考そのものは書くことよりよっぽど自由だ。何だって考えていい、そこから色々が動きが生まれ出す。自由の源泉なのだ。だから国は躍起になってその思考をコントロールしようとする。そこさえ握れば、あとはあくまで自発的に良い国民として振る舞ってくれる。政治家はバカでも国はバカじゃない。むしろバカを矢面に立たせて血だらけの盾にしている。そうか、参ったねこりゃな状態だ。あくまで僕らは、僕らはと書いてなんて大きな主語だと、自分の勘違いに恐ろしくなる。今まさに人の思考につけ入ろうとしていたのだ。元来人には他人を支配、コントロールしたい欲があるのかもしれない。国の起こりもそうだったのではないか。多分そんな本がある、この頭が考えることは大抵これまでの誰かが考えてくれている。本を探そう、そして考えるのだ。考える。これがわたしにできる一番の抵抗になる。考えることでしか、思考をコントロールするものに抗えない。そして考えるは厄介だ手間がかかる。それなら楽しいyoutubeを一時間みていた方がマシだ。環境によって作られるわたしと思考。ジャンクとノイズにさらされる続けた頭で考えられることはどんなものだろうか。
話があっちやこっちにいって定まらない。といってもはなから書きたいことがあったわけでもない。ヤク中、ホームレスだらけの道を歩いてこの国はダメだ政治が、とも、星の煌めく空を眺めていい星だここはなんても思わない。いやきっと思ったからここに書いている。そのどちらもが地続きで、今のわたしにはどちらも遠い、関係のないことのようだ。不感症だ。何だか自分だけがポツリと残されている。この感覚は危ない。その深みに入っていくと、入り込まされると鬱だ沼の中だ。そうじゃないそっちじゃない。死ぬんだから歩かなければ、歩いたほうが楽しいことを忘れちゃいけない、忘れさせるような嘘を突き破らなければならない。思考の力で。

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