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作家は書く 「カポーティ」

新型コロナウイルスの影響で、存在を忘れられたくないのか、多くのタレントが安いコメンテーターと化しているような錯覚さえ覚える。最近は議員までもが国会や論文などではなく、Twitterで無駄に発言し、炎上したら削除するということを繰り返す。だからなるべく無難に、世論が賛同するだろうという方向で稚拙に煽ることがほとんどに見える。情報にオリジナリティの欠片もないことが多い。

連休の自分の楽しみは、「夜更かし」である。特に、今みたいに自粛で予定を入れていないと、エスカレートする。深夜二時過ぎくらいから、まるで夜間飛行の座席のように、暗くしてグラスにいれた水とフルーツとをテーブルに置き、今日の一作を見る。隣にいる犬たちは寝息を立て、自分もそのまま眠ってしまっても良いとは思っているのだが、いつもと異なる一作を選ぶ事が多いので、大概エンドクレジットの頃には空は白ばんでいる。

カポーティ」2005年のアメリカ映画。作家トルーマン・カポーティ(代表作「ティファニーで朝食を(1958)」)が、「冷血(In Cold Blood)(1966)」を書き上げるまでの話が、この映画に収められている。

この本も機会があれば紹介したい。カンザスの「静かで保守的な」小さな村で起きた一家4人「惨殺事件」を扱っている。カポーティが描きたかったのは、その「無防備な人々」と「犯罪的暴力」の二つが交差する夜。死刑囚や周囲の人々を綿密に取材し、事件の真相を暴いていく内容であり、映画の中にも出てくるが、この一冊はノンフィクション小説という文学分野を世の中に本格的に誕生させるベストセラーとなった。取材が基礎になってはいるが、カポーティ自身が一切登場しない手法で書かれおてり、発生から死刑執行まで、事実を追っているのに、まさに小説として書かれている事がこの本の特徴だと言える。

パーティ三昧で人と酒とたばこの煙に包まれ、笑い、おどけ、幸せなライター街道を歩いているように見える主人公カポーティが、鋭い眼光でニューヨークタイムスの記事をハサミで切り取るところから、この映画は静かにカンザスの惨殺事件へと舞台を移す。ゲイに見えないよう、幼馴染であり人気女流作家でもあったハーパー・リーと行動を共にし、担当刑事に近付き、取材を広げ、そして加害者である二人へとたどり着く。死刑囚となったそのうちの一人から母親や自殺した家族の話を聞くうちに、特別な感情が沸いてくる。予告トレーラーでも引用されていたが、その共感を、この映画の中では独特の言い回しで表現している。

彼と私は同じ家で育ったようなもの。ただし、彼は裏口から、私は玄関から出て行った。

死刑囚への取材は、犯罪の夜を書き上げることで、文学界を変える一冊になると確信していた。取材対象である彼は、金脈なのだ。親身なふりをして、心を溶かし、犯罪の動機やその夜のことを聞けば、この仕事は完成する。しかし、それは死刑囚の気管を締め、頚椎を骨折させて殺す絞首刑で終わらなければ、完璧なエンディングにはならない。

作家が書いて、発表するということは、こういうことだと私は思う。その手段がどのような方法であろうが、表現の自由がある限り、書くことは制限されないし、制限させてはいけない。

今の日本、陳腐なワイドショーやSNSで、もっともらしく放たれる軽率な言葉に私は毎日のように嫌悪感を感じる。同じ思いの人も多いのではないか。本物の作家たちの遺した本を、今こそ読むことを私は勧めたい。


カポーティは、この作品を最後に、ペンを走らせることはなく、そして亡くなってしまった。短編集や未完の作品は出版されるが、作品としては、これが最後だ。

そして、私が愛してやまない主演のフィリップ・シーモア・ホフマンは、2014年に亡くなっている。

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