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半将軍は山伏だった

細川 政元(まさもと)は、細川勝元の嫡男。
聡明丸は7歳(数え年だと8歳)で家督を相続する。
丹波・摂津・土佐守護に就任する。

文明6年(1474年)4月3日、西軍方の山名政豊と和睦し、応仁の乱は終息する。

文明10年(1478年)7月に聡明丸は12歳で元服し、8代将軍・足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。

室町時代後期から戦国時代にかけての武将、守護大名。室町幕府24、26、27、28代管領。

細川政元(細川氏12代当主)、日野富子(義政の御台所、義尚の生母)が関わった政変
1493年(明応2年)に将軍足利義材を追放し、管領畠山政長を自害に追い込み、足利義遐を将軍に擁立して幕府の実権を握りました。
このクーデターは「明応の政変」と呼ばれ、近年の研究では戦国時代が始まるきっかけになったのではないかと注目されています。(歴史学者・鈴木良一氏)

政元は赤沢朝経と波々伯部宗量に命じて明応8年(1499年)7月11日の早朝に延暦寺を攻撃、大規模な焼き討ちを行わせたのである。この攻撃で根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍は全焼した
勢いに乗り喜光寺・法華寺・西大寺・額安寺などを焼き討ちして大和北部を占領した。

義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍足利義政や管領細川政元などは義視の子が将軍となることに難色を示し、堀越公方・足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃(足利義澄)を推す。
事実上の最高権力者になり、「半将軍」とも呼ばれた。(京兆専制)

政元は朝廷や幕府の儀式についても、実際の威信が伴わなければどんな立派な儀式でも意味がないと考えていたとみられ、後柏原天皇の即位式の開催を無益であるとして開催を認めなかった。

細川政元は、衆道(男色)性向がみられた。
修験道(山伏信仰)に没頭(空を飛びたくて天狗を目指した)して女性を近づけず独身を貫いたため実子はいなかったため、澄之、澄元、高国を養子に迎えました。
山伏には各地の情報収集もさせていたようだ。

しかし、3人の養子を迎えたことで家督争いが生じ、自らもその争いに巻き込まれる形で澄之の補佐役だった家臣・香西元長の間諜(工作員)・竹田孫七によって、自邸で暗殺された(永正の錯乱)。享年42。
澄之は細川家の血を引いていない親戚外のものだった。

政元に始まる細川政権自体は、政元の死から約40年後の三好長慶による主君細川晴元(と将軍足利義晴)への下克上によって崩壊するまで続いた。

修験者
私は小学生の6年間は夏休みだけ書写山の宿坊でお世話になりましたが
中学の3年間は修験者入門時代でした。
書写山も岩山を登っていましたが、もっと北にある雪彦山登山も小学生の頃からしていました。姫路のクライマーの聖地でもあります。
別パーティーの滑落事故を経験(目撃)してからしばらく休止してました。

修験道
修験道は、自然神信仰と密教信仰が一つになった信仰で、修験者たちは熊野の山奥に分け入り、那智の滝などで読経し修行しました。修験者は那智の滝の上にも登れます。

山伏(やまぶし)とは、山野に住んで修行する僧侶や修験道の道者を指します。
山伏は、山を神様や仏様に見立てて独自に実践的儀礼を重んじる宗教体系を形成していった。
山にある神が宿るとする木や岩などの自然物を拝みながら山中をかけめぐり、厳しい修行(苦行)に挑むことで自らの力を高め、山岳という他界に住んで山の霊力を体に吸収し、他界や現界をつなぐ者としての自己を引き上げて、それらの霊力を人々に授ける存在とされていた。

山伏は、頭に頭襟(頭巾、兜巾、ときん)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖を持つ。袈裟と、篠懸(すずかけ)という麻の法衣を身に纏う。また、山中での互いの連絡や合図のために、ほら貝を加工した楽器を持つ。

大峰山は、熊野から吉野に至る約160kmの山脈です。
山頂の祈祷で授かる御影は他では手に入らない貴重なものですが、行者に頼めば代理で頂くことが出来る。(代参有料)

峰入り(みねいり)とは、山中で修業を行うことを意味します。
修験道の儀礼が芸能化したものと考えられています。
精進潔斎:1週間前から五穀と肉を食べない。登山中に食べることが許される

大峰山は、「女人結界門」があり、今も女性は入山できません。
白専女(しらとうめ)は、修験道の開祖である役行者の母です。
「白専女」は「白狐」を意味します。
白専女の別称は、渡都岐比売(とときひめ)・刀自女(とらめ)とも。
女行者の祖とも呼ばれ、大峰山の吉祥草寺にも祀られています。

熊野から入って吉野に出ることを「順の峰入り」といいます。
修験道の行者が大峰入りをする際の、聖護院の天台系本山派の入山の仕方です。
日本初の修験道の総本山です。

「逆の峰入り」は、吉野から入って熊野に出ることです。
真言系当山派(現在は真言宗醍醐寺派)の入山の仕方です。
役行者は別称役優婆塞とも呼ばれる。
御真言は「おんぎゃくぎゃくえんのうばそくあらんきゃそわか」とお唱えします。

行者・講員が休息できる建物もあり、岩場に挑む前に息を整える場所でもある。

大峰山脈の主稜線を縦走する大峯奥駈道には、熊野・本宮証誠殿から吉野・柳の宿までの75ヶ所の靡(なびき)と呼ばれる霊地があり、祈りを捧げ行じます。
大峯奥駈道は、1300年の歴史を誇る山岳修行路で、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして世界遺産に登録されています。

すれ違う時の挨拶は「ようお参り」です
また、山伏は登山案内もするので、登山家の同行も可能です。

峰入りは、修験道の修行である入峰修行の略で、入峰(にゆうぶ)とも呼ばれます。

本山講


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