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平安時代の女性

平安時代の文字
平安時代は、文学での発展がめざましく、平安貴族を中心に「仮名文字」が使用されるようになり、漢文とともに平安貴族が出世するためには学問は必須でした。
また、紫式部や清少納言などの学問を得た女性作家が活躍した時代です。

平安時代の女性の名前
紫式部など下級・中級貴族で活躍した女性作家は実名が不明であることが多い。
紫式部の実名は「まひろ」(大河ドラマ『光の君へ』)ではないようです。

平安時代初期には、「有智子」「多可畿子」「須恵子」「可多子」などの名前があり、それぞれ「うちこ」「たかきこ」「すえこ」「かたこ」と読まれていたと考えられます。
女御藤原明子以外にも「あきらけいこ」という人がいたことが『古今和歌集』でわかった。

平安時代の女性の仕事
平安時代の女性には、天皇の寝所に侍する「女御(にょうご)」という身分がありました。女御は、皇后・中宮の下で更衣の上にあり、おおむね内親王・女王および親王・摂関・大臣の子女が務めました。平安中期以後には、次いで皇后に立てられるものも出てきました。

また、宮廷に仕える女性の官人は「女官」や「官女(かんじょ)」と呼ばれました。女官には、御匣殿(みくしげどの)別当、内侍、命婦(みょうぶ)、女孺(にょうじゅ)、女蔵人(にょくろうど)や、さらに下級の樋洗(ひすまし)、御湯殿女官、雑仕の女官などがありました。

平安時代の婚姻制度は一夫一妻制で、正式に結婚した妻とそれ以外の女性たちとの間には、妻としての立場、社会的待遇等において大きな差がありました。夫婦は同居し、妻以外の女性とは同居しないのが原則でした。

小野小町は美人?
夫や親兄弟以外の男性に顔を見せる文化がなかった平安時代の女性が、他人である人々から美人と判定されることはなかったでしょう。
化粧や服装は、階級や身分などによる決まりに従ったもので、自由ではありませんでした。

平安時代での一応の美人の基準は、 ・切れ長の細い目 ・キメの細かい白い肌 ・ふっくらした頬 ・サラサラした艶のある黒髪 ・体型もふくよか ・大きな顔 ・鼻筋が通った小さな鼻 ・おちょぼ口
などとされますが、その基準が固定されていたかは定かではありません。

垣間見る(覗き見する)しか、素顔を見る機会はなかったようです。

人さらい、人身売買もあった貧富の差が大きい(=治安が悪い)平安時代ですから、女性が顔を隠すのは身を守るためでもあったのでしょう。基本的には引きこもりであって、自由に顔を晒して外を歩くといった事は無かったようです。
治安が悪かったので、腕っぷしに自身がある者や修行を積んだ者が一定の富と名声を得て「武士」という下級貴族になる事があったようです。下級貴族である武士は中級以上の貴族の警護役を務めるようになっていきました。敬語だけでなく裁判のような事も始めた時代です。

源氏物語に登場する「大君」は、臨終の時ですら袖で顔を覆って隠しています。

収入
皇后、皇太后が最も高収入でした。
そしてその地位が得られるのは、女御になれる皇族、藤原氏、橘氏などの出身者に限られていたのです。
在位期間が短い天皇もおられたので、収入の変動は大きかったようですね。

結婚
貴族は一族の中で結婚する事が多かったようです
高貴な女性は少しでも身分が高い(天皇に近い)殿方を求めたようです。
家柄、親兄弟の役職で身分の高さが決まった。
貴族の男性は一夫多妻、妻になるにも身分差がつけられた。
年齢差とか近親相姦とか気にしていると結婚できない時代だったようです。

定子が不遇の中で亡くなったころ、紫式部も結婚3年ほどで夫に先立たれるという不幸に見舞われた。
年齢差が大きいと、妻になっても一緒に暮らせる期間は短くなるのは医療が確立されていない時代の常ですね。

源氏物語

紫式部の生涯

講釈師見てきたような嘘をいい 筆者情弱

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