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平将門

朱雀天皇
醍醐天皇第一一皇子。
延長8 (930) 年受禅・即位(8歳)。藤原忠平が摂政 次いで関白として政治を執った。
在位中は天災が多く、地方では東国に平将門の乱、西国に藤原純友の乱 (承平・天慶の乱 ) が起った。

平将門(たいら の まさかど)
延喜3年〈903年〉? - 天慶3年2月14日〈940年3月25日〉

平安時代の関東の豪族。
第50代桓武天皇四代の皇胤(天皇の男系子孫、桓武天皇の五世)
平氏の姓を授けられた高望王の三男 平良将の子
父の平良将は鎮守府将軍。

将門は15 - 16歳のころ平安京へ上京し、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を主君とする。12年在京する。
検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが入れられなかったため東下り。
検非違使は、今で言う警察と裁判所を合わせたような機関でした。

平高望(たいらのたかもち)
平安時代中期の賜姓皇族。高望王とも。
葛原親王の第三王子高見王の子
桓武天皇の孫(もしくは曾孫)にあたり、高望王流桓武平氏の祖。
官位は従五位下・正親正・上総介。

正室:藤原良方の娘
側室:藤原範世の娘

国香、良兼、良将、良繇、良文、良広、良持(諸説あり)、良茂、良正、藤原維幾室

平将門は、良持の子でした。
平貞盛は、国香の子でした。

昌泰元年(898年)、高望は上総介に任官した。当時の上級国司は任地に赴かない遙任も少なくなかったが、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地の上総国に赴き武射郡の屋形を本拠とした。

高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、その権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた。

平高望は、延喜2年(902年)に西海道の国司となり大宰府に居住、延喜11年(911年)に同地で没す。
翌年(903年)には、昌泰の変が起こり、菅原道真も失脚する。

平良持も死に、相続を争う戦が平一族で起こる。
叔父たちが皆敵に?
良持の子である将門を殺してしまえば領地が手に入るという考え方だ叔父。

伯父の平国香(平貞盛の父)らが上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川で将門を襲撃した
叔父で国香の弟にあたる平良文が将門を援護し、国香にしょうりした。
承平5年(935年)2月に将門は源護の子の源扶らに常陸国真壁郡野本(筑西市)にて襲撃されるが、これらを撃退し源扶らは討ち死にした。
将門は大串・取手(下妻)から源の本拠である真壁郡へ進軍して護の本拠を焼き討ちし、その際に伯父の国香を焼死させた。
護と姻戚関係にある一族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、この軍も将門に撃破され、良正は良兼に救いを求め、静観していた良兼も国香亡き後の一族の長として放置できず国香の子の平貞盛を誘って軍勢を集め、承平6年(936年)6月26日上総国を発ち将門を攻めるが、将門の奇襲を受けて敗走、下野国の国衙に保護を求めた。将門は下野国国府を包囲するが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国した。
護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が出て、将門らは平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服の大赦によって、全ての罪を赦される。

8月6日には良兼は将門の父の良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。この戦いで無敵の強さを誇った将門は敗走する事となる。

馬寮に属する常羽御厩を良兼・貞盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の太政官符を11月5日に将門が受けた。
官軍となった将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐した。のちに良兼は死亡する

平将門は関東を代表する武将となっていた
武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済王貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた藤原玄明が庇護(ひご)を求めると、将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日(940年1月3日)、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。

官軍から賊軍へ
将門はシン天皇を自称、朱雀天皇の朝敵となる(坂東武士の分与・独立)

下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称して東国の独立を標榜

千葉県成田市の成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により寛朝僧正が、京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、天慶3年(940年)海路にて上総国尾垂浜に上陸、平将門を調伏するため下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行ったのを、開山起源に持つ。このため、将門と将門家来の子孫は、今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。

この出来事により、将門は朝廷に対して反旗を翻すかたちになった。
しかし即位後わずか2カ月たらずで藤原秀郷・平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。

死後は怨霊になり、日本三大怨霊の一人として知られる。

明治期には将門は天皇に逆らった賊とされ、政府の命により神田明神などの神社の祭神から外されたり史蹟が破壊されたりした。その結果多くの史料が失われたが、一方で民衆の信仰は厚く、排斥を徹底させることはできなかった。また、これらの排斥運動から将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたとされる

言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、三日目に眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。
三ヶ月もの間、首は腐らなかったという。
ある時、歌人の藤六左近がそれを見て歌を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、頸塚は京都にはない。
飛んできた首は現在の「将門塚」に落ちたのだという。
この時、辺りは夜のように真っ暗になり、人々は恐れおののき、首塚を立てて祀った。(物語ですが、祟と思われる事象は起きていた)

御霊(ごりょう)信仰
日輪寺、津久土明神(築土神社)
後に御首神社・神田明神・国王神社などに祀られる。

塚が出来た当初置かれていた神社は津久土明神(現・築土神社)。
徳治2年(1307年)に真教上人が塚を修復して日輪寺を建立、さらに神田明神を建立する。
江戸幕府成立後に、日輪寺は浅草へ、神田明神は駿河台へ移転し、首塚だけが当地に残される。

千代田区大手町、三井物産のビルの横にある「将門塚」
超一等地ですが、この首塚には再開発などで移転などの計画があると、実際に犠牲者が出ており、現在でも畏怖の念を集めている。

記録に残る最初は大正時代
将門の首塚は大蔵省の中庭にあった。しかし、関東大震災で省舎が崩壊する。
そこで首塚の場所を更地にし、その上に仮庁舎を建設する計画が持ち上がった。

仮庁舎の工事が進む最中、時の大蔵大臣・早速整爾が急死。
さらに大蔵官僚や工事関係者ら14人が続々、不審な死を遂げたり、他にも足を負傷する次官クラスが多かった。
この時に、「大臣が亡くなり、大蔵省幹部、政務次官、事務次官など工事関係者が不幸な目にあうのは、首塚を荒らしたからに違いない」との噂が広がる。
結局、昭和2年に仮庁舎は取り壊される。
首塚は元どおりに復元され、再び祀られた。

戦後
GHQの関連施設の駐車場工事の為に、首塚を撤去する必要に迫られた。
工事が始まると重機が横転して、運転手が死亡。
さすがの科学万能/合理主義のGHQでさえも工事を中止する決断を下した。
昭和34年に土地が返還・払い下げされると、翌年に保存会が結成され、将門塚として復元される。

「将門塚」は東京都指定旧跡になっている。

朱雀天皇ののち100年間、藤原北家が代々朝廷の権勢を握る。
中でも大河物語『光の君へ』の中心人物の一人、藤原道長が知られる。

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