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興福寺と合戦

山階寺 →興福寺
7世紀半ばに藤原鎌足の私邸に建てられた藤原氏の氏寺。
法相宗総本山
本尊:釈迦如来
大和 平城京の外京部に位置する。奈良市登大路町
和銅3年(710)、平城遷都の際、藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。
奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。

僧兵:3,000人(平安時代)
大河ドラマ『光の君へ』33話~に登場する

鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺が守護相当の任に当たりました。
文禄4年(1595)の検地では「春日社興福寺」合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれました。
東大寺や春日大社などと共に世界遺産に登録されている。
興福寺境内の東金堂・中金堂・北円堂・南円堂・国宝館に多数の仏像が安置されている。
1411年(応永18年)に東金堂は雷の火災で、仏像の胴体が焼失、頭部だけ残った。東金堂は再建されたが仏像は頭部のみ安置された。
東金堂については平安時代以降、7回もの焼失し、そのたび再建されている。

南円堂(不空羂索観音 ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)
真言:おん はんどまだら あぼきゃ じゃやでい そろそろ そわか
ご詠歌:春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲

東金堂(薬師如来)
真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌:猿沢の 池のほとりの 寺庭に 瑠璃の光は あまねかりけり

一言観音
ご詠歌:頼もしく 歩みを運べ 一言の 願いも捨てぬ 誓いいませば

法相宗
日本仏教における法相宗は、唐の玄奘三蔵に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして8世紀から9世紀にかけて隆盛を極めた。

717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄昉も、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。元興寺法相宗は興福寺に吸収された。
興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。

源頼親(みなもとのよりちか)は、源満仲(みつなか)の次男として生まれました。
満仲は、藤原氏と結ぶことで武人として確かな地位を確立した。
頼親は、大和源氏(やまとげんじ)の祖といわれる。

兄は、大江山の鬼退治伝説でも知られる、源頼光(よりみつ)

兄弟で「武勇人」とされる
検非違使として、京内外の盗賊捜索や犯人逮捕に従事した。

頼親は淡路、信濃、周防などの受領を歴任。
大和守(やまとのかみ)を3度務めたことで、大和国に大きな勢力を形成していきました。

藤原道長の『御堂関白記』寛弘3年(1006)3年6月14日条
興福寺から、「当麻為頼により、興福寺領池辺園預を殺害された」との訴えが朝廷にあり、道長が頼親をただしたところ、「山階寺(やましなでら)から約3000の僧が為頼の館に押し寄せて焼き、田畑を踏み損じた」という主旨の報告があったことが記されています。

寛仁元年(1017年)3月8日、後一条天皇の行幸で検非違使の警備が手薄になった京中において郎等・秦氏元の子の一党が清少納言の兄・清原致信を殺害する事件が起こるが、後にこれが頼親の指示であったことが判明する。
頼親の一連の行動に、道長は「頼親は殺人の上手なり」とも記している。

頼親は長年にわたり、所領をめぐって興福寺と紛争を繰り広げました。

頼通は、後一条・後朱雀・後冷泉 三代天皇にわたって摂関となりました。

長く奈良の興福寺と紛争を繰り返し、最高権力者である藤原道長を悩ませました。

永承4年(1049)3度目の大和守在任中の合戦
興福寺の大衆が国司である父・頼親の邸宅に攻め寄せ、頼房がこれに矢で応戦して多数の僧を殺害したたことで訴えられ、永承5年(1050)に土佐に流された。

頼房は康平5年(1063年)に許されますが、承保3年(1076)再びの興福寺からの訴えで肥前に配流され、その地で死去しました。

源 頼親
官位:正四位下、検非違使、左兵衛尉、左衛門尉、大和守、周防守、淡路守、信濃守、伊勢守
主君:藤原道長
氏族:清和源氏経基流
妻:藤原嬉子女房
子:頼俊、親宗、為房、清仁親王妃

源 頼房
官位:従五位下、蔵人、兵庫助、加賀守、肥前守
氏族:大和源氏

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