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この世には不思議なことなど何もないのだよ

高校1年生のとき、どういう経緯か忘れてしまったけれど、数日前自己紹介したばかりの女の子が「これ、この前話した本」と、いかにも公立高校っぽい木製机の上に文庫本を2冊置いた。

本の話はした気がするけど、貸してもらうなんて話になったかしら。
『姑獲鳥の夏』上下巻。
小2の頃に読んだ、子供が泣くと話題の絵本「地獄」みたいな表紙。「貸してくれるの?」と確認して、持って帰った。

↓実際の表紙。

その子は控えめで、礼儀正しくて、言葉を一音一音丁寧に発音するのが心地よかった。上下巻セットの本を、軽い気持ちで人に勧めるタイプじゃない。

スクールバッグの、教科書を入れている仕切りの中に、お財布やペンケースをねじ込んだ。代わりに広くなったポケットに、文庫本を2冊入れた。15歳の私の、一番丁寧な運搬方法。

あまり小説を読んでいなかった。新書やエッセイが好きで、自分の知識や物の見方が広がることに夢中だった。即物的だったとも言える。小説か。ひょんなことから自分の生活に飛び込んできたものって、なんだかすごく魅力的に思える。私の好みも性格も知らない相手が勧めてくれた本。なんか良いな。その日のうちに読み始めた。

主人公は、猿顔で鬱気味の小説家、関口。舞台は昭和、夏、雑司ヶ谷。ダラダラと長い坂を登ったところにある、古本屋「京極堂」。店主は古本屋兼妖怪祓いの陰陽師。
関口が京極堂のところへ赴き、「二十箇月もの間子供を身籠っていることが出来ると思うかい?」と話を振るところから始まる。

この、舞台も季節も設定も、ピシャリと好みにはまってしまった。江戸川乱歩作品のような、喉がうっと閉まるような気味の悪さ。こういう設定を知ってしまうと、もう頭の中がいっぱいになって、食欲がなくなったり言葉数が少なくなってしまう子供だった。好みの舞台に置かれた、グロテスクな事件。喉をすーっと通った腕に心臓を鷲掴まれた。

数百ページ、どこまで読んでも謎が広まり深まり、残りのページは小指の爪ほどの幅もない。「ここまで広げきった話、どうやって収集つけるの?」
でもわかる。これきっとすごい終わり方をする。これまでの人生で経験したことのないような突き抜けがある。結論を急ぐ目を抑えるために左手で次の行を隠しながら読んだ。
読み終わった後、しばらく余韻に浸り、隣の部屋の妹に、すごい本を読んだと報告した。
作り替えられた頭で、世界を見回しながら眠った。

彼女に本を返すと、もう読んだの、と驚いていた。
「表紙が怖いから、引かれちゃうかと思った」

引かれちゃうかもという心配を彼女が飛び越えてきてくれてよかった。
気味が悪い表紙の本を平気で読みそう、と思われるタイプでよかった。「引かれちゃうかもしれないけど面白いもの」を勧めたくなる人間でいようと決意。

『姑獲鳥の夏』は百鬼夜行シリーズの第1巻だということで、2巻以降も貸してもらうことになった。彼女はだいたい美術室で本を貸してくれたけど、私は教室で返した。わざと堂々と振るまってた気がする。

次に借りた『魍魎の匣』は1000ページを超える文庫本で、『姑獲鳥の夏』とはまた違う装丁。さらにその次の『狂骨の夢』は、縦長の講談社ノベルス。古本屋で一番安いものを買って集めたらしく、裏表紙にはいつもキレイに剥がせない値段シールで105円と貼ってあった。

↓『魍魎の匣』はこの装丁のシリーズだったけれど、今調べたら表紙が変わっていた。昔は魍魎が箱の中の女を思いっきり食べてる表紙だった。

↓『狂骨の夢』はこの装丁。ちょっとかわいい。新書サイズだった。

レンガ本とも呼ばれるこのシリーズ、読み始めと読み終わりが大変心もとない。右手に5ページ、左手に995ページを持っていると、少し指の位置を間違えるだけで破けてしまう。私はよく物を落としてしまうのだけど、105円の百鬼夜行シリーズ全巻を一度も落とさず、ページに折り跡もつけずに読んだ。
装丁がバラバラであることが、古本屋の最安値で買い集めたことが、かえって彼女の切実な夢中さの表れだと感じていた。

『姑獲鳥の夏』を読んで得たものの中で最大の悟りは、言葉さえ身方につければ、この先の人生何があっても平気だということだ。
私は私の頭の中でトリップできる。

世界は物理とか化学とか、いろんな法則を守っているけれど、人間は言葉で世界を区切って生きる。
私は自分に言葉を浴びせて、頭を作り替えて、世界を変えられる。

本を読んで、言葉を知って、概念を知って、概念を言葉にして、自分を頭を支配して、そしたらきっと裸足でガラスの上だって歩ける。

ずーっと、日本地図の東の端っこ。小さな地域の、生まれる前から出来上がった人間関係の中にいた。三百年も前のご先祖様の名前が仏壇の本に書かれている。テレビの全国CMで流れる新商品はこの地域では売られない。ずーっと、ここ。家から飛び出ればすぐに海で、世界はここまで。

ときどきお腹の奥から足の甲までゾワ〜っと広がる、ぶつけどころのないやる気みたいな、怒りみたいな波があった。それは、髪を染めたりスカートを短くするようなテンプレートじゃどうも発散されなくて。けど、わかりやすい反抗をしなかったってだけで、無かったわけじゃない。世界が人の形だったら、首に噛みつきたいような気持ちがずっとぐるぐるしていた。

『姑獲鳥の夏』は、このエネルギーをぜんぶぜんぶ漏瑚に入れて、本のページを捲る理性に変えてくれた。出鱈目な大雨を降らせるんじゃない。エネルギーを一度ダムに溜め、慎重に川の流れを掘って、それが地球の裏側まで血管のように巡ってから。賢くなって強くなって、思慮深くなってから、決壊を起こすのだ。叫び声にはみんな耳を塞ぐけれど、語る声なら心に入れる。

私にとって『姑獲鳥の夏』は、アリスが通った小さな扉だ。アリスはその先に不思議の国が広がっていたけれど、私に広がっていたのは理解の国とか、真理の国、言葉の国と読んだ方がしっくりくる。なぜかって、

この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君

京極夏彦 1994『姑獲鳥の夏』講談社ノベルス

百鬼夜行シリーズを貫く、京極堂の口癖。

『姑獲鳥の夏』を貸してくれた子は、私の卒業アルバムに「高校生活バラ色でした」と書いてくれた。

黒い明朝体と、黄みがかった白いページでできたバラ色が、私はまだ過去形にならない。


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