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自分には才能がないと気づいた三十路手前の話

「まもなく下北沢、下北沢です。お出口は右側です。」と女性の声に続いて、英語のアナウンスが続き電車が停車しようと少しずつスピードを落とす。

懐かしい駅のホームには、相変わらず前髪の長いバンドマンや派手な髪色の外国人、ダボダボの古着を着こなす女子大生がたくさん見えた。30手前スーツ姿のくたびれた私にはひどく眩しく映るその姿。
思わず懐かしい気持ちが芽生え、ふっと思い出に浸る。


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大学生時代はこの街によく通った。
入学してからすぐに大学が近いと言う安易な言い訳のもと、家から1時間もかかるこのおしゃれな街にわざわざバイト先を探した。
学年が上がりキャンパスが移動になっても大好きになったこの街でのバイトを続けたのは当時の彼氏もこの街に住んでたから。
若い私にはそれだけでも通う元気があった。

昼間には古着屋巡りの若者や、日本のサブカルチャーを目当てにした観光客たち、世田谷区に住所を持つマダムーズで溢れかえっているこの街も、夜になろうとするこれくらいの時間、6時ごろから夢追い人の街へと様変わりする。
駅前にはサイファーたちがゾロゾロと集まり出し、シンガーソングライターを目指す人たちはギターを持って座れそうな場所へと腰を落ち着けダンボールで作った名前のボードを置く。
昼間にはスタジオに通ってレッスンを受ける芸能人の卵や次のライブのチケット代を自分の財布から出さねばならないバンドマンも、最後のタバコを吸ったらバイトに向かって歩き出す時間。


私は特に何か夢を追っていたわけではなかったけれど、夜の下北沢が大好きで遅くまで飲食店のバイトに励んでいた。親には申し訳ないが家に帰らない日々も多々あった。
スズナリ劇場の近くには一丁前にもお気に入りのバーがあったり。狭い店内と薄暗い照明、陽気な店主とベルが鳴るとテキーラを飲むシステムで、そこではいつも飲みすぎてばかりいたから恥ずかしい思い出ばかりが詰まってる、ある意味青春の店だった。

そんな青春時代に夢追い人たちに囲まれた私は、自分にも何かしらの才能があると信じていた。誰にも何も言われていないのだけれど勝手に思い込んでいたのよね、不思議なことに。
その根拠のない自信から、小さいサイトで自分の考えを文字に起こしたりブログみたいなものも書いていた。

内容は大したものではなかったし、今見返したら笑ってしまうくらい真っ黒な黒歴史だと確信できる。
それでも、憧れのライターさんの言葉遣いや書き方を真似して必死にになっていた。


そんな幻想の塊を抱いていた私が根拠のない自信を捨ててもうすぐ5年になろうとしている。
最初に内定をもらった地方の会社にそのまま就職し、初めての一人暮らしを経験して田舎ライフを良くも悪くも飽きるほどに満喫した。
入社した頃には「3年後にはお金貯めて会社やめて海外に行って将来はフリーランスで何か仕事したいなぁ、できたら26歳で結婚して子供も、、、」なんて淡い夢を抱いていた。
けれど仕事というのはそんなあまっちょろくないあっという間に新卒3年は過ぎ去っていった。
仕事をして歳を重ねて少しずつ自分の仕事に伴う責任が大きくなっていくうちに、自分は特別な存在などではなくごく普通の人間だとようやく理解した。これも誰かに特別言われたわけではないが3年間で実感せずには居られなかった。

自分の成長スピードの3倍速で同期が出世し、理不尽に上司に怒られながらも取引先に頭を下げ、それでも自分の仕事がうまくいけば飛び上がるほど嬉しくて帰りにちょっと高いビールを買って帰る日々。あんなに自信のあった私には社会の波に抗えるような意思の強さも、次の仕事に結びつくほどの才能もなかった。

自分は社会の歯車の一つで、
単なる一般人以外何者でもなくて、
凡人だった。


学生の考えなんてハナクソみたいなもんだと、あの頃の自分に言いつけたいものだ。なーにが、海外行ってフリーランスじゃ。


そして私は4年目にして、部署の移動を兼ねて東京の営業所へとやって来た。舞い戻った東京は予想の5倍は息苦しかった。田舎にはない満員電車や人混み、おしゃれな飲食店ばかりが立ち並び、ヒールでないと歩けないようなビル群。
3年間のイモ娘感を3日で失わせるほど東京での業務は忙しかった。忙しいおかげで、息苦しさも実感する頃には眠りについているようで、ありがたい部分もあったわけだが。

あの頃は全てが望み通り行くって思ってたなぁ

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こーんな風な未来になりそう
だから先に書いてみた

これはまだ1つ目でオチは決めてません。
でも続きを書きます。


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