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読むベストアルバム! 『Mr.Children 道標の歌』Introductionを特別公開!

「ミスチルのこと、深く知ることが出来た気がします。好きになりそうです。──桜井和寿」

Mr.Childrenの軌跡と奇跡を、彼らを25年間追いかけて得た資料と、メンバーや関係者の新たな証言をもとに綴った傑作ノンフィクション。

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Introduction

 バンドを「作る」とは言わない。バンドは「組む」ものだ。大切なのは組み合わせ。Mr.Childrenは、その理想の形である。彼ら4人は個性豊かであると同時に似たもの同士でもある。カチッと繫がり結束できるがパカッとはずれて個々にもなれる。長続きの秘訣はそこだ。そんな彼らも、もう少しでデビューから30年。4人は膨大な時間を共にし、音を響きあわせてきた。

 Mr.Childrenのメンバーは4人で力を合わせ、作品という名の「化合物」を生み出すことができる。それはけして、個々の“我”が勝った「混合物」ではない。そもそも彼らは、楽器を持ったからといって豹変する人達ではない。実際に会ってみると、それぞれが、いかにも自分が担当する楽器の“鳴り”そのものの人格といえる。歌を生み出す桜井和寿に関しては、作品のなかの人物を“演じる”ことも多々あるのだろうが……。

 アルバム『重力と呼吸』に収録されている「皮膚呼吸」という作品の後半に、[歪むことない僕の淡く 蒼い 願い]という表現が出てくる。これは桜井曰く、バンドのギタリスト、田原健一のことを歌っているという。確かに田原のギターは、歪ませて他の楽器を圧倒してしまおう、というものではない。むしろ、彼の想いを等身大の音圧にしたものだ。Mr.Childrenの音楽が「化合物」を成すひとつの要因は、田原のギターにあると言えるだろう。


「大切なのは組み合わせ」と書いたが、まずはこの4人が、いかに結集したかを紹介しよう。それは中学時代にまで遡る。

 中学校は、田原と中川敬輔と鈴木英哉が同じで、桜井だけが別だった。(高校は、桜井と田原と中川が同じで、鈴木は別だった。Mr.Childrenは高校の軽音学部が母体であり、鈴木の加入が高校卒業時となるのはそれも関係してのことだ)

 桜井が音楽に熱中し始めるのは中学2年の時だ。親戚から教えてもらった甲斐バンドや浜田省吾のことを好きになり、彼らに“なりきって歌う”のが好きな少年であった。大声で歌って踊りたい時は、家の雨戸を閉め切った。

 姉からギターを譲り受け、歌本を買って、巻末のギター・コード表などを参考に独学で習得した。当時の集中力には凄いものがあり、寝る間を惜しんで弾いていたという。井上陽水の「断絶」と「氷の世界」が入ったカセットを買ってきて、相当に聴き込んだりもした。自分で歌を作るのもいいかもしれない、という想いは、このあたりから芽ばえていく。

 次第に音楽のない生活は考えられなくなり、将来はプロのミュージシャンになりたいと願うようになる。中学の修学旅行の帰りのバスのなかで、彼を調子づけるこんな出来事があった。マイクが回ってきたので甲斐バンドの「安奈」を歌った。すると友達が、「レコードかと思ったよ!」と言ったのだ。高校は絶対、軽音楽部が盛んなところに行こう。そう誓った。

 田原は小学生の頃からリトル・リーグに所属し、野球に打ち込み、そのチームは全国大会で準優勝するほどレベルが高かった。そのまま中学でもシニア・リーグに進み野球を続けるが、この時代の多くの中学生がそうだったように、YMOの音楽などにも惹かれた。

 中川も小学校の頃は野球をやっていて、野球エリートの田原の存在は知っていた。面識はなかったが、友人が田原と同じクラスだったので、友人を通じて田原を同じ塾に誘い、出会いを果たす。世はバンド・ブームだった。中川の友人の中に、兄の影響でエレキ・ギターを弾いている人間もいて、カッコいいなと思う。気づけば中川と田原の間でも、バンドをやってみるのもいいよね、という会話が生まれていく。

 鈴木は田原や中川と同じ中学だが、共通の友人もおらず、交流はなかった。彼はこの頃から、本名より、ニックネームのJEN(ジェン)と呼ばれることが多くなっていく。愛称の由来は、当時スズキが出していたスクーター、「ジェンマ」からだった。鈴木のまわりには音楽が溢れていた。彼の家には、音楽好きの友人が集まった。ただ、みんなの趣味はバラバラだった。ジャズのセロニアス・モンクのあと、BOØWYのレコードが掛かり、アイドルの浅香唯が流れたかと思うと、メタリカが爆音で響く。

 家のほど近くに多摩川が流れていたので、中学3年生の時に買ったドラムを河川敷まで運び練習した。完全な余談だが、彼はこの付近で二度ほどカッパを目撃したという。

 中学3年の文化祭では、バンド・デビューを果たしている。

 やがて高校進学が目前になると、田原と中川は、バンドをやりたいという想いをより確実なものにすべく、楽器を購入する。渋谷の公園通りにあった「イシバシ楽器」で、中川はフェンダージャパンの「プレシジョン」を5万円で購入。田原は、新宿の伊勢丹の先の「イシバシ楽器」で2万8千円の「スクワイアー」を買った。

 なぜ田原がギターで、中川はベースだったのか? 最初に田原が中川に、「ギターが弾きたい」と告げたからだ。それなら中川は、「ベースにしよう」と思う。あくまで彼らの願いはバンドを組むことであり、それを妨げる個人のエゴよりその目標が優先されたのだ。


 いよいよ高校生となり、桜井はギター・ケースを提げて通学していた。ある日、授業を終えて部室へ行こうとすると、坊主頭の野球部の人間が桜井のギターをみてこう言った。「これ、テレキャスター?」。意外だった。野球部の人間がエレキ・ギターに興味を示すとは思わなかったからだ。田原は言った。「僕はストラトキャスター持っているんだけど……」

 桜井は嬉しかった。クラスに話があう人間が出来そうだったからだ。甲斐バンドの話で盛り上がったこともある。邦楽ばかり聴いていた桜井を、洋楽に目覚めさせたのは田原だ。エコーズとともに、U2のレコードを貸してあげたのだ。

 この時点で桜井と中川はすでに軽音楽部で出会っているのだが、桜井に対し、中川と一緒にバンドを組むことを提案しているのが田原だ。「なんとなくこの2人なら、馬が合いそうな予感がした」からである。やがて田原が、野球部をやめそうだという噂を聞く。ならばと桜井は、「それならバットをギターに持ち替えてもいいのでは……」みたいなことを話しかけてみた。坊主頭だった田原の髪は、やがて長髪になっていく。

 3人がそろった頃、組んでいたバンドは5人編成だった。他に女子のキーボード、さらにドラムという編成だ。軽音の部室は先輩たちが使っていたので、下級生は街の練習スタジオを借りる必要があった。お金も掛かった。そのうち、それでもバンドを続けたいという人間だけが残り、それが桜井と田原と中川だったのである。

 鈴木はどうだったのか。彼は順調に音楽活動を続けていた。ある程度の演奏力があるドラマーは、アマチュアの世界では引く手あまたなことが多い。鈴木も多くのバンドを掛け持ちしていた。一番多いときは、6つか7つのバンドで演奏していたほどだ。


 話を3人に戻す。彼らのバンド活動は、どのように進展したのだろうか。そのカギとなるのは、まったくのスタート時点では甲斐バンドのコピーなど2、3曲はやったものの、その後は「オリジナルを優先した」ことである。当時の曲作りに関して、桜井は苦労したり挫折したりという記憶がないという。なんとなく浮かんできたメロディに、あとから言葉をあてはめていく。もちろん曲作りはそんな簡単なことではないだろうが、この大原則のもと、その時代、その時代のレベルにおいて、彼らは作品を残していく。

 オリジナルの優先には、切実な事情もあった。みんな、楽器をスクールで勉強したわけではなく、独学の我流である。演奏テクニックがあったわけじゃない。憧れのバンドのこの曲を演奏したい……。でも難しい。そして挫折……。これはアマチュアにはよくある話。でも、オリジナルならその心配はない。その都度、自分たちの力量の範囲内で、組み立てていけば良かった。そもそもコピーというのは、やり過ぎると染みついて、独自の色を出そうにも、そこから抜け出せなくなる危険を孕む。彼らには、その心配はなかった。

 当時の3人は、ライブをやるたびに、様々なグループ名を考えた。それも楽しみの一つだった。高校3年になり、実力も増し、大きなコンテストやオーディションでも最終選考に残るようになっていた頃、彼らは「ザ・ウォールズ」と名乗っていた。もしここでグランプリを獲得したら、プロ・デビューできるソニーのオーディションも決勝に残った。ただ、その直前に、ドラムが抜けてしまう。窮地にたたされた3人は、大会までに是が非でもドラマーを探さなければならなかった。吉祥寺駅のかつての中央口を出ると、すぐ横に全階楽器店のビルがあった。この付近なら見つかるはずだと、それらしき人に声を掛けたりした。また、練習スタジオに個人練習に来ていた人を誘ったこともある。

 仕方なく3人だけで活動した時期もあった。桜井がドラムを叩くこともあった。しかし、ひょんなことから適任者が見つかる。それは1988年に吉祥寺の「シルバーエレファント」というライブハウスを仲間うちで貸し切り、出演した時のことだ。たまたま一緒になったバンドで叩く、ある男に目が留まったのだ。見覚えのあるヤツだった。「確か中学の頃に一緒だった鈴木じゃないか?」。田原と中川は、その男を注視する。

 鈴木は当時、別のバンドで活躍していたが、3人に誘われることとなる。桜井は、ともかく決勝大会が迫っていたので、「ドラムなら誰でもよかった」のだという。一方の鈴木は、「土下座して頼まれたので、仕方なく了承した」そうだ。どちらが本当のことかは分からない。だが、桜井にとって、やはり鈴木のドラム・テクニックは、超・高校級に映ったのだ。そして鈴木は、桜井の書く作品の、アマチュアのレベルを遥かに超えたクオリティに驚愕したのである。


「前史」はここまでだ。いよいよMr.Childrenが産声をあげる。本書では、Mr.Childrenを追いかけた25年間の膨大なアーカイブと、この本の執筆のために取材をしたメンバーや関係者の新たな証言をもとに、彼らの代表曲や重要曲を中心に取り上げ、その魅力を紐解きながら、これまで門外不出だったエピソードも交え、彼らのヒストリーを綴っていく。いわばMr.Childrenの現時点での、“読む”ベスト・アルバムなのである。みなさんの頭の中に、彼らが生んだ名曲達が、より解像度の高い音色で反復されたらと願ってやまない。

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