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芦沢央短編集『汚れた手をそこで拭かない』から1篇を先行公開!

ひたひたと忍び寄るおそろしさ、ぬるりと変容する日常から、目を背けてはならない――。
切れ味抜群の独立短編集『汚れた手をそこで拭かない』が2020年9月26日に発売されます。
発売に先駆けて、日本推理作家協会賞(短編部門)候補作にもなった1篇「ただ、運が悪かっただけ」を先行公開いたします!

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◇ ◇ ◇

ただ、運が悪かっただけ


 襖(ふすま)を開け閉めするような音が、どこか遠くで続いている。

 開いては閉じ、開いては閉じ、開ききらず閉じきらず、ただひたすらに敷居の上を滑り続ける古びた襖。端に滲(にじ)んだ淡い染みは人の顔に似て、左右に揺さぶられるほどに笑みを深めていく。

 にげなくては、と私は思う。あれはきっと、こわいもの。

 せめて目だけでもそらさなければ。そう思ったところで身体が少しも動かないことに気づき、思わず息を詰めた瞬間に目が覚めた。

 見慣れた天井の木目が視界に飛び込んできて、カン、という金属を叩く澄んだ音にぬるまった息が漏れる。

 ——ああ、鉋削(かんなけず)り。

 頭を枕から引き剥(は)がすのと、夫が鉋を持つ手を止めるのが同時だった。

「起きたか」

 ええ、と答える声がひどくかすれる。咳払いをしたくなったものの、一度咳をすると止まらなくなってしまう気がして寸前で堪(こら)えた。目の前に差し出された湯呑みを目礼をして受け取り、震える腕を動かして喉を湿らせる。

「ありがとう」

 夫は短くうなずくと作業台へと向き直り、金槌を小さく振って裏金を調節した。

 再び、襖を開け閉めするような音が響き始める。

 ——何を作っているんだろう。

 夫の手元には、長さ一メートルほどの角材——椅子の部品か、何か棚のようなものでも作るのか。

 けれど、かなりの時間が経っても夫は同じ木材を削り続け、次の工程に移ることはなかった。作業台の上に積み上がっていく削り屑(くず)の山に、私は胸を強く押されたような圧迫感を覚える。

 夫は何かを作っているわけではないのだと、わかってしまう。夫はただ、心を落ち着けるためだけに手を動かしているのだと。

 私が余命半年という宣告を受けたのは、今から約一年前のことだった。

 夫の被扶養者として入っている健康保険の五十五歳健診で要精密検査と言われ、何かの間違いだろうと笑いながら検査を受けたところ、末期癌だと診断されたのだ。

 既に複数の臓器に転移していて手術は難しく、薬物療法に踏み切ったものの効果が出ずに治療を打ち切った。

 せめて最期は自宅で迎えたいという私の希望を、夫は受け入れてくれた。夫が町大工から建具職人へと転身して以来、一日の大半を過ごすようになった作業場の片隅に、医療用ベッドを運び込んでくれたのだった。

 夫が作業をしているところを見るのが好きだった。木の具合を確かめる鋭い目、道具を扱う迷いのない手さばき。その節くれだった指が立てる厳(おごそ)かな音に耳をすませていると、波打ち続ける心身の痛みが静まっていくのを感じた。

 ——けれど、夫にとって、弱っていく妻を目(ま)の当たりにする日々は、どんなものだっただろう。

 夫を思うのならば、本当は少しずつ存在感を失くしていくべきだったのかもしれない。自分がいなくなっても、できるだけ変わらない生活が送れるように。

 それなのに私は、自分が少しでも夫のそばにいたい気持ちを優先して、こうした最期を望んだのだ。

『ああ、本当に情けない』

 ふいに、義母の声が脳裏で反響した。その言葉を聞いた瞬間の、頭から冷水をかけられたような感覚までもが蘇(よみがえ)る。

 もう二十年以上前、義父が脳梗塞で倒れ、一命は取り留めたものの介護が必要になったと聞かされたときのことだった。

 どうしよう、これからどうしたらいいのかしら、と繰り返す義母に、私はどうするべきなのだろうと考えた。

 義父がこうなった以上は同居した方がいいのかもしれない、というのが最初に浮かんだ考えだった。義父は身体が大きい。義母ひとりに介護を任せるのはあまりに酷だろう。一緒に暮らすなら部屋の間取りはどう使うのが最適か、あるいは改築をした方がいいのか——そこまで考えたところで、『ああ、本当に情けない』という叩きつけるような声が飛んできたのだった。

『さっきからそわそわとよそ見ばかりして。少しは真剣に考えたらどうなの』

 誤解だ、という言葉がすぐには出てこなかった。喉に何かが詰まったようで、全身が冷たくなっていくのがわかった。

『落ち着けよ』

 低く、静かな声が隣から聞こえたのはそのときだ。

『十和子(とわこ)が真剣に考えていないわけがないだろう』

 夫は当たり前のことを口にするようにそう言うと、私の肩に手を置いた。その手のひらの温かさで、全身の強張(こわば)りがほんの少し緩(ゆる)まる。

『あの、同居するとしたら、どういう形で部屋を使うのがいいのかなって……』

 何とかしぼり出すようにそう言った途端、義母は変な味のものを食べたような顔をした。

『そんなの、今考えるようなことじゃないでしょう』

 まったく、理屈くさい、と続けられた言葉に身が竦(すく)む。

 それは、幼い頃から何度も言われてきた言葉だった。どうしてあんたはそうひと言多いの、屁理屈をこねるんじゃない、本当におまえはかわいげがない——

 またやってしまった、と思った。後悔と羞恥心が一気に湧き上がってきて、頬が熱くなる。

 だが、夫はもう一度『落ち着けよ』と言った。

『十和子は、母さんがどうしたらいいかって言ったから対処法を考えていただけだろう』

 この人はわかってくれるのだ、と思った途端に泣き出しそうになる。けれどここで泣いたら義母を責めるような形になってしまうかもしれない、と思うと滲みかけていた涙が引き、数秒してから、ここで泣くぐらいの方がまだかわいげがあったのかもしれない、と気づいた。

 義母も、突然義父が倒れて気が動転していたのだろう。翌日には言いすぎたと謝られ、それ以降同じような言葉をぶつけられたことはなかった。

 むしろ同居してからは『本当にいいお嫁さんをもらって幸せだわ』と何度も言われ、義母が亡くなる前には『何だか、息子より本当の娘みたい』とさえ言われた。

 義母があの日のことを引きずっていたとは思えないし、そもそもあのときの言葉が義母の本心だったとも思わない。非常事態にこそ本性が出る、という言葉があるけれど、やはり非常事態に出るのは非常事態の感情であって、それがその人の本質や本音だと考えるのは早計だ。

 なのに、なぜ、今になってあの言葉を思い出しているのだろう。別に義母に対して不満やわだかまりを抱き続けてきたわけでもないのに。

 私は重くなってきたまぶたを下ろし、長く息を吐き出した。

 ——もし、子どもを産んでいたら、どうだっただろう。

 それは、これまでに何回も何十回も考えてきたことだった。私と夫の子は、どんな子どもだったのか。子どもを育てる人生とは、どのようなものだったのか。もし子どもがいれば、自分が先に他界しても夫は一人にならなくて済んだのか。

 五十六歳——その数字をどう捉えればいいのか、考えるほどにわからなくなる。

 二十代の頃、五十代なんて途方もない未来に自分が生きていることさえ上手く想像できなかった。けれどいざ五十代になって病気になり、もうこの先に未来はほとんど残されていないのだと告げられると、自分はどこかで平均寿命まで生きるはずだと信じていたことに気づかされる。

 その、あるはずだった道が突然閉ざされたことに、意味づけをせずにはいられない。もっと頻繁に健診を受けるべきだったのかもしれない。食生活に問題があったのかもしれない。何かバチが当たったのかも——でも、そうではないのだ。そもそも平均寿命というものは平均でしかないのだから、それを基準に考えること自体がナンセンスなのだとわかっていてもなお、本来なら与えられるはずだったものを奪われたような気がしてしまう。そして、その原因は自分にあるのではないかと。

 夫は、これからどのくらい生きるのだろう。どうか長生きしてほしいと願いながら、添い遂げようと誓った相手を置いていかなければならないことがたまらなくなる。

 結局、私は夫に何も残してあげることができなかった。そう思うと、全身から力が抜けていくような虚しさと、居ても立ってもいられなくなるような焦燥(しょうそう)感が同時に湧いた。いや、夫に対してだけではない。私はつまるところ、この世に何も残せはしなかったのではないか。

 まぶたを持ち上げると、夫は相変わらず鉋をかけていた。時折、刃砥ぎや裏金の調整をしながらも、懸命な手つきで鉋を動かしている。

 規則的に響く這うような音。

 夫は昔から年に数回、夜中にうなされることがあった。悪い夢でも見たのかと尋ねても答えることはなく、翌日には決まっていつもより長く鉋をかけていた。

 私はゆっくりと時間をかけて上体を起こす。夫が手を止め、首だけで振り向いた。問うような視線に、私は迷いながら口を開いていく。

「ねえ、あなた」

 思いつき、というほど意味のある考えだと思っていたわけでもなかった。確信があったわけでもない。

 ただ、何も残せないのなら、せめて引き取れないだろうか、と思っただけだった。

 夫を苦しめている何かがあるのなら、それを。

「もしあなたが何か苦しいことを抱えているのなら、私があちらに持っていきましょうか」

 夫の小さな目が、見開かれていく。

「別に話したくなければ、話さないままでも構いません。ただ、もし持ち続けているのがつらいことがあるのなら、私に預けたと思って手放してしまうのもいいんじゃないかと思って」

 瞳が揺らぐのが見えた。

 ごと、と重いものが作業台に置かれる音が響く。夫の乾いた唇がほんの少しわななき、喉仏が上下した。

 数秒後、夫はすっと息を吸い込む。

「俺は昔、人を死なせたことがある」

 長い時間、蔵の暗がりにしまい込んできたものを恐る恐る取り出すように、夫は静かに語り始めた。

 工業高校を卒業してすぐ、光村(みつむら)工務店で働き始めた。

 基礎は高校の授業で学んではいたものの、当然即戦力になれるわけでもない。まずは大工見習いとして雑用をこなしながら現場で経験を積み、五年もすれば一応見習いという言葉は取れるが、一人前として認められるようになるには最低でも十年はかかるという話だった。

 その、五年目のある日、職場で一本の電話を受けた。

『遅い!』

 受話器を持ち上げるなり飛んできた罵声(ばせい)に、誰何(すいか)するまでもなく相手がわかってげんなりする。その一瞬の間を鋭く咎めるように、『ったく』という舌打ちが続いた。

『最近の若いのは挨拶もろくにできやしない』

「すみません、いつもお世話になっております、光村工務店です」

 咄嗟(とっさ)に背筋を伸ばして答えると、ふん、と鼻を鳴らす音が響く。

『いいか、お世話になっておりますってのは相手の名前を聞いてから言うんだよ。常識だろうが』

「えっと、中西(なかにし)様ですよね?」

『そういうことを言ってんじゃねえよ』

 中西は憤然として吐き捨てた。俺は「すみません」と首を縮めながらも、ここで名前を出さなければ、おまえは得意客の名前も覚えられねえのかと言われていただろうとも思う。実際、何度かそう怒鳴られたことがあったからだ。

 最初に中西を怒らせてしまったとき、叱責(しっせき)を覚悟して親方に報告すると、親方は『誰が得意客だよ』と笑った。『中西の用事なんて、どうせ椅子のがたつきを直せとか、電球を替えろとか、そんなもんばっかじゃねえか』

 親方の言葉は本当だったと、身をもって理解することになった。中西は依頼頻度こそ月に数回と多いものの、どれも本来の工務店の業務ではなく、得意客へのサービスを求めているに過ぎなかった。時折、網戸の修繕や壁紙の貼り替えなどの依頼もあるにはあったが、何にしても金額は大きくない。

 だが、それでも中西でなければ、ここまで悪(あ)し様(ざま)に言われることもなかっただろう。

 中西は、工務店の誰からも嫌われていた。呼びつけられて行って作業をすれば、「この程度の仕事で金が取れるんだから楽でいいよな」とせせら笑われ、少しでも世間話をするような間があれば、飲食店で料理が出てくるのが遅かったと苦情を入れてタダにさせたという自慢にもならない自慢や、娘が孫の顔も見せにこないといった愚痴(ぐち)を延々と聞かされる。

 ベテランの大工ほど中西の家には行きたがらず、そもそも中西はベテランの大工でなければ務まらない仕事を依頼してくるわけでもない。必然的に一番の新米である自分が中西を担当することになった。

 ため息をこらえながら、ボールペンを構えた。それで、と尋ねかけたところで、『おまえのところではどんな改築ならできるんだよ』と遮(さえぎ)られる。

「改築?」

 訊(き)き返した途端、斜め前にいた親方が顔を上げた。無言で腕を差し出され、慌てて中西に電話を替わる旨を伝えてから親方に受話器を渡す。

 しばらくして電話を切った親方の話によると、中西が依頼してきたのはそれなりに大がかりな改築工事だった。妻には先立たれ、娘も嫁いでいって部屋が余っているから、二階の部屋を二つ潰して居間の中心に吹き抜けを作りたいのだという。ついでに台所や浴室の設備も最新のものに替えたいということで、かなりまとまった額の工事になり、他の顧客よりも手間がかかるだろうことを見越してもなお旨味(うまみ)がある仕事になりそうだった。

 これは俺にとっても願ってもない話だった。親方や実際に作業に携わるベテランの職人たちが直接中西と打ち合わせをするなら、自分は担当から外れられるからだ。勉強のために同席こそすれ、これまでのように愚痴や怒声の矛先(ほこさき)になることはあるまいと思うと幾分気が楽で——けれど蓋を開けてみれば、その目算は誤りだった。いくら中西とは言え、押しが強く迫力のある親方には言い負かされることも多く、そのたびに鬱憤(うっぷん)をぶつけられるのはやはり自分だったのだ。

 中西は、親方が提示した案を一度は飲んでも、しばらくすると俺に対し「素人だからぼったくってもわからねえだろうと高をくくっているんだろうが、そうはいかねえからな」と唾を飛ばし始める。複数の会社からの見積もりを揃えて説明を重ね、やっとのことで工事を進めても、標準的な規格の段差で躓(つまず)いたというだけで手抜き工事のせいだと騒いだ。

 結局、親方自ら細かく工事箇所の説明をして無事に引き渡し書に署名をもらえたのは、通常の工期よりも半年以上遅れてからだった。

 署名をしてもなお「こんな工事で大金ふんだくりやがって」と絡(から)み続ける中西を何とかかわして工務店に戻ると、工事に関わった職人たちは皆、無事に署名をもらえたか気が気でなかったらしく、一斉に腰を上げて「どうだった」と口にした。

 そして、親方の「今日はもう切り上げて打ち上げでもするか」というひと言で場がわっと沸いた瞬間——

 工務店の電話がけたたましく鳴り、全員が動きを止めた。

 嫌な予感がした。そして、誰もが同じことを考えているのか、誰も電話に向かって手を伸ばそうとしない。

 焦燥感を煽(あお)るようなそのベルの音は、中西の怒鳴り声によく似ていた。おい、おまえら何サボっていやがるんだ。上手く隠れているつもりでも俺にはわかるんだからな。まるで本当にどこかで見張っているかのようなタイミングに、もはや恐怖に似た思いを抱きながら電話に出る。

「はい、光村工務店で……」

『おい、どうしてくれるんだ!』

 受話器から飛んできた怒鳴り声は、ビリビリと空気が振動するのを感じるほど大きく響いた。名乗る言葉はなかったが、もちろん名前を問いかける必要はない。全員の視線を受け止めながら、腹に力を込めた。

「あの、何か問題がありましたか」

『問題なんてもんじゃねえよ! とんだ欠陥工事じゃねえか!』

 受話器を耳から少し離し、親方を見る。親方は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて煙草に火をつけた。けだるげにくゆらせる仕草に、俺は思案してから受話器を握り直す。

「つい先ほど、一緒に工事箇所を確認して引き渡し書にも署名していただいたはずですが……」

『さっきはついた電気がつかねえんだよ!』

 一瞬、言葉が出てこなかった。は、と訊き返しそうになるのを、何とか堪える。

 現地に確認に行くまでもなく、原因ははっきりしていた。

 電球が入っていないのだ。

 検査の際に親方が電球を入れて電気をつけてみせ、電球が切れたらまた工務店に連絡をもらえれば交換に来ると説明したところ、中西は『そうやっていちいち金を取る気なんだろう』と毒づき始めた。

『脚立さえあればこんなもの誰にでも替えられるんだからな』

 その言い草には親方もカチンときたのだろう。『そしたら、この電球は外してもいいですね』と平坦な声で言い、中西が『どうせ素人には替えられないと思って足元を見てやがるんだろうが』と吐き捨てると、さっさと外してしまったのだ。

 俺が「あの、電球は」と言いかけた途端、中西はそうした経緯を思い出したのか『うるせえ!』と激昂(げっこう)した。

『そんなことはわかってんだよ! 俺は、あれだけ金を払って工事させてやったのに電球代もケチりやがるおまえんとこのやり口が気に食わねえって言ってんだ!』

 俺は音を立てずに息を吐く。だが、それは安堵(あんど)ゆえでもあった。本当に欠陥工事というわけではなかったのだから。

「電球、入れに行きましょうか?」

『当然だろうが』

 怒鳴り声と共に電話が切れた。俺は今度こそ長いため息を吐き出す。

 受話器を戻し、打ち上げには電球を入れてから向かうと告げた自分を、工務店の面々はお人好しだと笑った。あんなやつ、放っておけばいいじゃねえか。そうだ、あいつは脚立さえあればこんなもの誰にでも替えられるって言ってただろう。

 自分でも、どうして行くと言ってしまったのかわからなかった。吹き抜けの電球を替えるには三メートル近い脚立を使わねばならず、そんな脚立はこの辺のホームセンターでは売っていないだろうと思って申し出てしまったが、考えてみれば中西には他の工務店に頼むという選択肢もあったのだ。これを機に中西が他の工務店に鞍替(くらが)えしてくれれば、今後も中西から呼びつけられることはなくなったというのに。

 中西の家が近づくほどに後悔は増し、それでも何とか「他の工務店はこんな依頼は受けない。このまま電球が入れられなければ困るだろう」と自分に言い聞かせて車を降りたのだが、出迎えたのは中西の仏頂面と「金儲けのためにこんなデザインにしやがって」という言葉だった。

 俺は、両手で脚立を抱えたまま呆然(ぼうぜん)と立ち尽くした。

 金儲けも何も、吹き抜けにしたいと希望したのは中西自身だ。掃除や電球を替える手間が増えることは何度も説明したのに、中西が『いいから言われた通りにやれよ』と言い張ったのだ。

 ——第一、この程度の手間賃で本当に儲けが出るとでも思っているのだろうか。

 むしろ出張代を考えれば完全に赤字だというのに。

「……別に、お代はいりませんよ」

 俺は低く言いながら玄関にいる中西の脇を通り過ぎた。そのまま勢いよく奥へと進んでしまいたかったが、無造作に進んだら壁に脚立の脚が当たってしまいそうでそっと進むしかない。縮めた脚が伸びないよう留め具を横目で確認していると、何グズグズしてんだ、という声が後ろから飛んできて、耳の裏が熱くなった。こんなことなら縁側から入ればよかったと後悔するが、引き返せば引き返したで罵(ののし)られるだけだろう。

 俺は手早く作業を終え、とにかくさっさと工務店に戻ろうと踵(きびす)を返した。だが、玄関まで戻ったところで、「おい、おまえ」と呼び止められる。

「はい」

 顔から表情を落としたまま振り返ると、中西は俺が脇に抱えていた脚立を顎(あご)でしゃくるようにして示した。

「その脚立、いくらだ」

「は?」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。中西の視線に促されて脚立を見下ろした途端、『脚立さえあればこんなもの誰にでも替えられるんだからな』という言葉を思い出す。

 ——まさか、本気で自分で替えるつもりなのだろうか。

「これは売り物では……」

「そんなことはわかってんだよ」

 中西は苛立(いらだ)ちを隠そうともせず舌打ちをした。

「だけど、この電球はその辺の脚立じゃ替えられねえだろうが」

「いや、ですから、またご連絡をいただければ替えにきますけど」

「そんなに小金が欲しいのか」

 中西が心底馬鹿にするように唇を歪める。俺は唖然(あぜん)とし、遅れて押し寄せてきた疲労感に微かな眩暈(めまい)を覚えた。

「そうじゃなくて、危ないんですよ。かなり高さがありますし」

「年寄り扱いするんじゃねえよ。おまえのところの親方だってそう歳は変わらないじゃねえか」

 中西は噛みつくような口調で言い返してくる。俺は空(あ)いている手でこめかみを揉んだ。たしかに親方は今年六十七歳になるし、中西とほぼ同世代だと言えるだろう。だが、長年大工として働いてきた親方と中西とでは、当然身体能力が違う。

「それは親方が特別なんですよ」

「そんなに言うならもう一度立ててみろよ。上ってみせてやるから」

 なぜこんな流れに、と思いながらも、中西には逆らいきれなかった。仕方なく床に脚立を横たえ、留め具を外して収納されている脚をずるずると引き伸ばしていく。踏(ふみ)ざんをつかんで留め具をかけ直し、ゆっくりと立ち上げた。実際に上ってみたら諦めてくれるかもしれない、という目算もあった。脚立というものは、いざ自分が上ってみると傍(はた)から見ているよりもずっと高く感じられるものだ。

 だが、予想外に中西は危なげない足取りで脚立を上ってみせた。

「ったくおためごかし言いやがって。これで文句はねえだろうが」

 嘲(あざけ)る声音で言われ、目が泳ぐ。数秒考えてから、

「脚立を買う方がよほど高くつきますよ」

 と口にした。中西が損得にこだわっているのであれば、あくまでも同じ土俵で話した方が効果があるのではないかと考えたのだ。実際、この業務用の脚立はかなり高価だ。たとえ毎月電球を替えるようなペースだったとしても、とても元は取れないだろう。

 すると、中西はムッとしたように顔をしかめた。

「俺が金を持ってないとでも思ってんのかよ」

 ——どうして、そんな話になるのか。

 身体から力が抜けていくのを感じる。ああ言えばこう言う、という言葉が浮かんだ。そうだ。この男は、ただ相手に文句をつけたいだけなのだ。

「金ならあるんだよ」

 中西が、まるでドラマに出てくる悪役のように言いながら財布を広げる。俺は思わず視線を向け、ぎょっと目を剥(む)いた。大量のお札が無造作に突っ込まれた財布は、折り畳めないほどパンパンに膨らんでいる。

「こんな大金、見たこともねえだろ」

 中西は下卑(げび)た笑みを浮かべ、もったいつけた動作で財布から金を抜いた。

「で、いくらだ」

 何となく金を直視できずに顔を伏せる。

「……親方に聞いてみないと」

「使えねえな」

 中西は鼻を鳴らし、じゃあ電話貸してやるよ、と電話機を親指で示した。数秒迷ったものの、ひとまず工務店に電話することにする。

 もう打ち上げに行ってしまっているかとも思ったが、親方は一応心配してくれていたらしく、すぐに電話に出て『どうした』と尋ねてくれた。言葉を選びながら経緯を説明すると、『あ?』と怪訝(けげん)そうな声を出す。

『何言ってんだ。脚立なんていくらすると思ってんだ』

「でも、お金ならあるそうで……」

「何グズグズしてんだ、貸せ」

 焦(じ)れたらしい中西に受話器を奪われた。そのまま中西が乱暴な口調ながら同じ説明をし、何を話しているのかわからないうちに突然乱暴に電話を切る。どんな話になったのだろうと思ったが、中西は説明するでもなく再び財布を開けた。一度すべてのお札を出してから、黒ずんだ指先を舐(な)めて生々しくめくる。

「ほら、これで文句はねえだろ。それ、置いていけ」

「え、でも……」

 視線が電話機へと泳いだ。親方は、本当にいいと言ったのだろうか。

「これはうちの店で使っているものですし、どうしてもということであれば、お金をお預りして新しいのを買ってきますけど」

「今電話で聞いたんだよ。これは少し前の型だから完全に同じのは手に入らないかもしれないって話だ」

「じゃあ、同じようなものを探して……」

「これがいいって言ってんだろうが」

 中西は俺に金を押しつけて脚立をつかんだ。

「おまえらが売り物として持ってきたものじゃない方が、まだ信用できるって言ってんだよ」

 仕方なく使い方や注意点を説明してから工務店に戻ると、親方は「何だ、本当に売っちまったのかよ」と呆れたように言った。俺は慌てて、「やっぱりまずいですよね」とトラックへ駆け戻る。

「今、取り返してきます」

「ああ、いいっていいって」

 運転席のドアを開けたところで、親方が苦笑した。

「金は受け取ってきたんだろ。使い古しの方がいいってあいつが言ってんなら、うちはその金で新しいのを買えばいいってだけだ」

 手のひらを差し出され、俺はあたふたと中西から渡された料金をその上に載(の)せる。親方は枚数を数えながら唇の端を持ち上げた。

「これでもう電球を替えろって呼び出されることもなくなるだろうし、まあ、怪我の功名(こうみょう)ってやつだな」

 その後、遅れて行った打ち上げの席でも、みんなから「よくやった!」と肩を叩かれた。

 そして、本当にそれ以降中西から呼び出しが来ることもなくなり、徐々に彼の存在を思い出すこともなくなっていった。

 だがその半年後、中西がその脚立から落ち、頭を打って死んだのだ。

 夫の口調は静かで、だからこそ様々な感情が内側で渦巻いているように聞こえた。

「それは、あなたのせいじゃないでしょう」

 陳腐な言葉だとわかりながら、言わずにはいられなかった。

 どう考えても、夫が悪いとは思えない。完全に、その中西という男の自業自得ではないか。

 だが、夫は表情を和(やわ)らげることなく、鉋に顔を向けたまま唇をほとんど動かさずに続けた。

「脚立が、壊れていたらしいんだ」

「壊れていた? でも売った直前まであなたが問題なく使っていたんでしょう?」

 夫は力なく首を振る。

「いつ壊れたのかはわからない。俺のところに来た刑事の話では、上から五段目の踏ざんの片側が錆(さ)びていて体重をかけた拍子に外れてしまったらしい。そこは脚を伸縮させるための留め具を動かす際に必ずつかむ場所だから、俺が売ったときには壊れていなかったのはたしかだが……どうも錆止めがそこだけ剥げてしまってたみたいなんだ。工務店では屋内の作業場で保管してたんで特に問題はなかったが、中西さんの家では雨ざらしにしていたものだから、そこだけ錆びてしまったんだろうという話だった」

「だったら、やっぱりあなたのせいじゃないじゃありませんか」

 私は腹の中の何かが沸騰(ふっとう)するような感覚を覚えていた。数瞬して、それが怒りだと気づく。久方ぶりの感情だった。動悸が速くなり、眩暈がする。

 何度も夜中にうなされていた夫の姿が蘇った。苦しそうな唸(うな)り声、聞いているこちらまで身が竦んでしまうような歯ぎしりの音——その原因が、こんな理不尽なものだったということ。

「その中西っていう人がちゃんと管理していなかったのが悪いんじゃないの」

 夫は、今度は首を振らなかった。だが、うなずくこともない。

「たしかに、警察からもそう言われたよ。劣化は誰にも予測できなかったし、普通は使うときだけ伸ばす伸縮式の脚立を、伸ばしたまま保管してるなんてのも予想できなかっただろう。だから責任を感じることはない、と」

「じゃあ」

「だけど、それでも俺があのときあの脚立を売っていなければ起こらなかった事故なんだよ」

 夫の目は、宙を見ていた。瞳が一瞬だけ揺らぎ、またすぐに曇る。

「俺はあの日、脚立を持って帰るべきだったんだ。何を言われようと、とにかく親方に直接相談してから出直しますと言い張るべきだった」

「そんな……」

 私は言いかけ、そのまま続けられなくなった。考えをまとめることもできずにいるうちに、夫が再び口を開く。

「たとえ一度は置いて帰ってきてしまったとしても、戻って取り返すことはできた。落ち着いて本当に脚立が必要なのかを考えてもらって、それでもどうしてもほしいと言うのなら新品を買ってくるべきだった」

 そんな、という言葉が、今度は声にもならなかった。夫はきっと、どこをどうしていれば避けられた道だったのか、繰り返し考えてきたのだろう。そして、分かれ道を見つけるたびに自分を責めてきたのだ。

「親方も先輩も、みんな気にすることはないと言ってくれたよ。おまえのせいじゃない。俺だっておまえの立場なら同じようにしていたと……中西さんの娘さんも」

 夫が、しぼり出すような声音でつぶやく。

 私はハッと顔を上げた。娘さん——言われるまで、中西の家族の存在を忘れていた。たしかに先ほどの夫の話には、妻に先立たれ、娘も嫁いで部屋が余ってる、という言葉があったのに。

「娘さんは、俺を責めるような言葉はひと言も口にしなかったよ。むしろ、こんな後味の悪いことに巻き込んでしまってすみませんと言ってくれた。それでも俺が顔を上げられずにいたら、『あの日、脚立の反対側を使って上っていれば、父は落ちることもなかった。ただ、運が悪かっただけなんです』とさえ」

 どんな思いで、そんな言葉をかけてくれたのだろう。そう胸を突かれると同時に、ありがたい、とも思ってしまう。少なくとも、夫は遺族から責め立てられたわけではなかった。

 だが、夫は、

「事故が起きた日——娘さんは約二十年ぶりに実家に帰ってきていたそうなんだ」

 と、声を沈ませた。

「二十年ぶり?」

 私が訊き返すと、ああ、と目を伏せる。それから、ほんの少し迷うような間を置いてから唇を薄く開いた。

「娘さんの話だと、結婚を反対されて駆け落ち同然に家を出て以来、ほとんど連絡すら取っていなかったそうだ。孫の顔を見せたこともなく、これからも見せるつもりはなかった」

「だったらどうして……」

「娘さんに病気が見つかって、余命宣告をされたらしい」

 夫は、今度は間を置かずにひと息に言った。

「死ぬかもしれないと思って初めて、このままでいいんだろうか、と考えたそうだ」

 私は皺だらけの自分の手を見下ろしながら、「ああ」とうなずいた。

 その気持ちは、わかる気がした。死ぬ前に、せめて少しでも後悔を失くしておきたい。最期の瞬間、自分の人生を否定しながら死んでいきたくはない。いままさに私が抱いている感情だった。

「だけど結局、中西さんは孫の顔を見ることなく亡くなってしまった」

 夫は、独りごちるような声音で言い、鉋をぐっと両手で握った。

「その日は、お孫さんは来ていなかったの?」

「まず、彼女だけが会ってみて、もし父親が昔とは変わっていて、少しでも和解できそうだと思えたら、日を改めて連れてくる気だったそうだ」

 夫は眉根(まゆね)を寄せた。

「……結婚を反対されたとき、『子育てに失敗した』と言われたらしい。ガイジンなんかと結婚したって、差別されるだけで幸せになれるわけがない、と」

 私は、息を呑んだ。

「何てことを……」

 夫も苦虫を噛み潰したような顔をする。

「ああ、ひどい話だよ。発言自体もひどいが、当の自分が差別的な発言をしている自覚がないところがたちが悪い」

 そんな言葉を実の父親から投げつけられて、娘さんは一体どんな思いがしただろう。

『おまえは本当に、かわいげがない』

 父親から幾度となく言われた言葉が蘇った。何気なく言われた言葉でさえ、まるで呪いのように常に意識の奥に沈んでいるのだ。ましてや、「子育てに失敗」なんて言葉で、存在自体を否定されたとしたら——もう二度と会いたくないと思っても無理はない。

 だが、それでも彼女は死ぬ前にもう一度、父親に会うことを選んだのだ。

 ——もしかしたら、父親は変わってくれているかもしれないと、一縷(いちる)の望みをかけて。

「きちんと話をする前に、事故が起きてしまったの?」

「ああ、久しぶりに訪れた実家が様変わりしていることに娘さんが驚いて、まず改築箇所を説明する流れになったらしい。それで、ちょうど吹き抜けの電球が切れていたから中西さんが電球をつけ替えようとして……」

 夫が息を吐く音が聞こえた。私も、両目を閉じて長く息を吐く。

 ——何て、間が悪い。

 いや、まだよかったと考えることもできるのだろうか。

 夫の話からすれば、中西が娘さんの知っている頃と比べて変わったとは思えない。むしろ、再び失望せずに済んだだけでもましだったと言えるのかもしれない。

 だが、私がそう言うと、夫は力なく首を振った。

「彼女は、『父が何も変わっていないのは、会ってすぐわかった』と言っていたよ。『父は私が家の中に脚立を運び込むのを手伝ってもくれなかったし、ドアを押さえながら私がふらつくのをただニヤニヤ笑って見ていただけでした』と」

 夫が、ゆっくりと顔を上げた。

「それに、娘さんは二十年ぶりに会った父親にただ失望しただけじゃ済まなかったんだ」

 私の方を向き、ため息交じりに続ける。

「彼女は、父親を殺したんじゃないかと疑われてしまったんだよ」


 ちょっと待って、と私は手を伸ばした。

「中西さんが亡くなったのは、脚立の——何ていうか、はしごの段の部分が錆びて外れて落ちてしまったことによる事故だったんでしょう?」

「ああ、それは間違いない。事故の直後に駆けつけた救急隊員の話によれば、中西さんは救急隊員が来たときにはまだ息があって、途切れ途切れながら会話もできたらしいから。彼は『脚立から落ちた』とは口にしたけれど、たとえば娘さんに何かをされたというようなことは言っていなかった。あとはただ譫言(うわごと)のように『どうして、俺が』とばかり繰り返していただけで」

「だったら、何で殺したなんて話になるの」

 意味がわからず、思わず口調が強くなってしまう。夫は困ったように眉尻(まゆじり)を下げた。

「それはそうなんだが……何でも、未必(みひつ)の故意、というやつじゃないかって話で」

「彼女は脚立が壊れていることを知っていて、使えば事故が起こるかもしれないと思いながらわざと父親に使わせたんじゃないかってこと?」

 私が訊き返すと、夫は少し驚いたような顔をする。

「よくわかるな」

 それは、夫がよく私に言ってくれる言葉だった。十和子は本当に頭がいいなあ。俺はさっぱりわからなかったよ。父親なら、おまえはかわいげがないと切って捨てるような場面で、夫は必ずそう言ってくれた。

 夫は、「まさにそういう話だよ」とうなずいた。

「そもそも錆止めを剥がしたのが彼女なんじゃないかと疑われたらしい」

「でも、実家に帰ったのは二十年ぶりだったんでしょう?」

「ああ。娘さんが警察に証言した話によれば、父親に言われて外に置いてあった脚立を縁側から室内に運び込むまではしたけれど、脚立に触ったのはそれが最初で最後だったそうだ。——だが、それは嘘で、本当は父親が脚立を買った直後に一度実家に帰っていたんじゃないかと疑う人がいたらしい。その際に錆止めを剥がしておいて、しばらく経(た)っても事故が起こらないことに痺(しび)れを切らしてもう一度帰って脚立を使うよう誘導したんじゃないかって……まあ、警察がというより近所の噂レベルの話だが」

 ——そんな馬鹿な。

 私は脱力した。

 たとえ錆止めを剥がしておいたとして、それで実際に事故につながるほどの錆び方をするかどうか、それは誰にも予測できない。それに、夫が警察からも言われたように、そもそも脚立の脚を伸縮させていればすぐに壊れていることがわかったはずなのだ。

 いくら、よりによって不仲の娘が二十年ぶりに帰ってきたその日に事故が起きるなんて間が悪すぎるのだとしても、だから娘のせいだと考えるのは飛躍しすぎというものだろう。

 だが、夫は「娘さんが疑われた理由は単純なんだよ」と口にした。

「中西さんが、大金を持っていたからなんだ」

 私は「あ」と声を漏らす。そう言えば、話を聞きながら気になっていたことではあったのだ。改築費用といい、脚立の料金といい、妙に羽振りがいい印象だった。それまでは吝嗇(りんしょく)で、決して金払いがいい客ではなかったようなのに、一体どうしたのだろう、と。

「宝くじの一等を当てたらしい」

「宝くじ?」

 思わず声が裏返った。

「ああ。当時の額で三千万円、その中から自宅の改築費用を払っても、事故の時点で二千万円近く残っていたらしい」

 二千万円——たしかに大金だ。

「娘さんは、事故の当日に帰るまで宝くじの話なんて知らなかったと主張したが、信じてもらえなかったそうだ。二十年も会っていなかったのに、急に会いに行くことにしたのは、宝くじの話を聞いたからじゃないか、と」

「でも、それは、自分がもう長くないことがわかったから……」

「まあ、ほとんどやっかみみたいなものだろう。彼女は結局そのままそのお金を相続することになったわけだから」

 ふいに、何年か前にテレビで見た「高額当選者の末路(まつろ)」という番組が脳裏に浮かんだ。当選者が強盗に襲われたという海外での事件、飛行機の墜落事故の被害者の中に当選者がいたという話、当選者の家で起きたという相続トラブル——どれも、その不幸を面白がるような調子だったように思う。やっぱり宝くじなんかに当たるとろくなことがない。そんな、どこか負け惜しみにも似たニュアンスが「末路」という言葉の選び方にも表れていた。

 そうだ。たしかに二千万円はまとまったお金だったろうが、遺産として考えればそれほど突出して大きな金額でもない。なのにそこまで注目されたのは、それが宝くじの当選金だったからではないか。

 私は枕に後頭部を押し当て、ため息をついた。

「それで、結局その娘さんは疑われたままになってしまったの?」

「いや、しばらくして疑いは晴れた」

 夫は数分かけて机の引き出しから一枚の紙を探し出し、私に差し出す。

 端(はし)が黄ばんだ厚みのある紙の上部には、〈研修プログラム〉という文字が見えた。

「これは……」

 戸惑いながらも受け取ると、夫は「裏に中西さんの体験談が載っているんだ」と言いながら裏面へ返す。夫が指さした先には、小さな太字で〈中西茂蔵(しげぞう)さん 七十一歳〉と書かれていた。

「娘さんいわく、この研修プログラムってのは今でいう自己啓発セミナーのようなもので、当時アメリカで流行していた金持ちになるための哲学をアメリカ帰りの講師が教えるというものだったらしい。簡単に言うと、善行こそが運を引き寄せるっていう教えだ」

「自己啓発セミナー」

 私は口の中でつぶやくように復唱する。理解が追いつかないままに体験談の本文へ目を向けた。

〈私は、このプログラムのおかげで宝くじの一等を当てました。ただ、考えてみれば、教わったことはすべて幼い頃から自然に実践してきたことのようにも思います〉


 冒頭は、そんな文章から始まっていた。おそらく口頭でのインタビューを丁寧な口調に直してまとめたものなのだろう。

〈お金持ちというと、ケチくさいとか、悪どいとか、そういうネガティヴなイメージがあるでしょう。でも実はそういう輩(やから)はいわゆる小金持ちで、本当のお金持ちにはむしろ人格者が多いんですよ。

 ケチくさいどころか、どんどん人にあげてしまう。道でゴミを拾ったり、間違えている人がいれば指摘してやったり、そういう「善行」を誰かの目を気にしてとか見返りを求めてとかじゃなくて、自然にやるんですね。

 人の悪口は言わないし、身なりはもちろん家の中もいつも綺麗にしている。それからご先祖様を大切にしていますね。こまめにお墓まいりに行ったり、仏壇に毎日ご挨拶をしたり。そう、挨拶は大事ですよ。最近は挨拶もろくにできない若者が多いですけどね。

 やっぱり神様はそういうところをきちんと見てくれているんだと思いますよ。だから無理にお金にがめつくならなくても勝手に運気が上がっていくんです。

 あとは、大金を手にしたことは無闇(むやみ)に人に話さない。妬まれるとトラブルになりますから。そういう悪い気から距離を取るのも肝要です。私も宝くじのことは娘にも話していませんよ〉

 そこまで読んだところで目が泳ぐ。神様、という単語の上に何度か視線が引き寄せられ、慌ててまばたきをした。

 夫から聞いた話と「善行」という言葉が繋げられることに、ひどい違和感がある。たしかに中西は挨拶を重んじていたとは言えるだろうし、人に対して何かを指摘するということも日常的に行ってきただろう。

 だが、果たしてそれは、ここで言われている「善行」と一致するのだろうか。

「中西さんがこの研修プログラムを受講したのは事故の直前で、体験談を寄せてすぐ亡くなってしまったそうだ」

 夫はそこで一度言葉を止めて、文面の中ほどを指さした。

「ここに、中西さんは娘さんに宝くじの話をしていなかったと書かれているだろう?」

 そう言われてようやく、夫がこんなパンフレットを見せてきた理由がわかった。

 なるほど、たしかに事故の直前の時点で中西が娘に宝くじの話を伝えていなかったことが事実なら、少なくとも当選金目当てで事前に脚立に細工をしていたという線は消える。

 だが、私は納得しかけて、ふいに引っかかりを覚えた。

「……でも、それだと順番がおかしくない?」

 研修プログラムを受けたのが事故の直前で、その後に宝くじを当てたとなると、当選金で改築をしたわけではないことになってしまう。

 すると夫は、自分でもどう咀嚼(そしゃく)すればいいのかわからないというような顔で、パンフレットを見下ろした。

「いや、実はそうなんだ。警察が調べたところ、このプログラムのおかげで宝くじを当てたという話自体がそもそも嘘なんじゃないかって」

「嘘?」

「ああ、つまり本当の順序としては、まず宝くじが当たって、改築をして、それから研修プログラムを受けた、と」

 それはつまり、どういうことだろう。

 ——中西は、既に大金を手に入れていながら、金持ちになるための方法を必死になって聞く他の受講者たちの中に敢えて紛れ込んでいた?

 ぞわりと、二の腕の肌が粟立(あわだ)った。

 一瞬、見たこともない男の顔が浮かんだような気がする。いや、それは顔ではない、表情のイメージだ。周囲を上目遣いで探りながら、零(こぼ)れそうになる笑いを噛み殺している男——中西はさぞ気持ちがよかったことだろう。自分はおまえたちとは違う。先生の言う「人格者」であることが既に証明されているんだ。そんなふうにほくそ笑んでいたのではないか。

 私は再び体験談に目を落とした。〈ネガティヴ〉というあの世代が使うにはそぐわない単語が浮かび上がって見える。これは、実際に中西自身が口にした言葉なのか、それとも原稿にまとめる際に取材者が言い換えた言葉なのか——どちらにせよ、中西は研修プログラムの中で語られる哲学をいたく気に入っていたに違いない。

 なぜなら、それは中西の生き方を肯定してくれる理屈だったのだから。

 考えてみれば、当時中西は七十歳を過ぎていたのだ。大きな病気はしていなくとも、自分の行く先について思いを馳(は)せる機会はあっただろう。妻に先立たれ、娘には絶縁され、孫の顔も見られないまま一人で死んでいくだろう未来。

 中西は、工務店の人間を呼びつけては、娘が孫の顔を見せないことへの不満を口にしていたという。それはつまり、それだけ気にしていたということだ。彼はきっと、考えまいとしながらも心のどこかで考えずにいられなかったのだ。自分の人生は間違っていたのだろうかと——だからこそ、そうではないと保証してくれる理屈にすがりついた。

 自分は、天の神様に認められたのだから正しかったのだ、と。

「このパンフレットを娘さんに見せたのは、中西さん自身らしい」

 夫は、噛みしめるような声音で言った。

「大規模な改築がされている実家を見て驚いた娘さんに、中西さんは宝くじの話をしたんだそうだ。そして、この体験談を読ませた」

 ——これを、わざわざ本人に読ませたのか。

 私はげんなりする一方で、そうだろうとも思う。おそらく、彼が誰よりも自分の正しさを思い知らせたかった相手は、娘さんだったのだろうから。

「娘さんは、『こんなものがあったおかげで疑いが晴れることになったのだから、ありがたいと言えばありがたい』と苦笑していたよ。結局、彼女もそれから間もなくして亡くなってしまったんだが」

 夫は私の手からパンフレットを引き抜き、そのままそっと音を立てずにシーツの上に置いた。


 夫は、細く長く息を吐き出した。

 その反動のように勢いよく息を吸い込みながら、顔を上げる。

「たしかに、話すだけでも楽になるものだな」

 先ほど私が口をつけた湯呑みをつかみ、自然な動きであおった。首から提げていた手ぬぐいで口元をぬぐい、私に向き直る。

「ありがとう」

 いえ、と答える声がかすれた。声が上手く出ない、と自覚した途端、全身がだるく火照(ほて)っているのを感じた。身体の内側が捻(ねじ)られるように痛み、息が詰まる。この数十分間、普通に会話をしていられたのが不思議なほど唐突で激烈な痛みだった。背中を丸めるや否や夫の手が伸びてきて、背中に触れる。

「悪い、疲れただろう」

 夫が申し訳なさそうに背中をさすってくれる。肩甲骨の間から腰まで、ゆっくりと往復する手の温(ぬく)もりに、私は両目を閉じて集中した。

 息を意識的に吐き出し、痛みの塊を身体から押し出していくイメージをする。それでも、少しでも気を抜いた途端に全身が強張ってしまいそうになる。

 痛い、苦しい。それだけが意識のすべてになってしまうことが恐ろしい。

 ——ああ、どうして。

 見えない力に引きしぼられていくように、身体の芯から感情が滲み出してきてしまう。

 どうして病気になどなってしまったのだろう。一体、私の何が悪かったというのだろう。

 考えても仕方がないとわかっているのに、何度も何度も打ち消してきたというのに、それでも湧いてきてしまう思いに、どうすればいいのかわからなくなる。

『まったく、理屈くさい』

 ——これは誰の言葉だったか。

 本当に、理屈くさい。何にでも意味を求めずにはいられない自分。因果が見出せなければ何事も飲み込めない自分。

 病気になったのは何かのせいではありません、ついそんなふうに思ってしまいがちだけど、そうじゃない。あなたは、ただ、運が悪かっただけ——これまで何度も聞かされてきた言葉が蘇り、その瞬間、頭の中で何かが弾ける感覚がした。

 何かが、引っかかった。

 私は宙を見つめて夫の話を巻き戻す。どこだろう。私は一体、何に引っかかったのか——

「……なぜ、あんなことを言ったんだろう」

 乾いた唇から言葉が漏れた。

「あんなこと?」

 背中の温もりが、動きを止める。私は夫を振り向きながら口を開いた。

「『どうして、俺が』って何のことだったのかしら」

 夫は目をしばたたかせる。

「何のことって……」

「中西さんは救急隊員の前で『どうして、俺が』って繰り返していたんでしょう?」

「一体どうしてこんなことに……って思って出た言葉なんじゃないか?」

「それだと『俺が』の部分の説明がつかないの」

 そう、『どうして、俺が』という言葉は、あくまでも「俺が」に重点が置かれているのだ。

 どうして、《この俺》が——

〈やっぱり神様はそういうところをきちんと見てくれているんだと思いますよ。だから無理にお金にがめつくならなくても勝手に運気が上がっていくんです〉

「中西さんは、自分の幸運に対して因果の意味づけをしていた。自分は運がいい、それは自分がこれまでにしてきたことが正しかったからだ。それなのに、どうしてこの俺が——」

 私は言いながら、ある可能性に気づく。

 脚立から落ちた中西は、頭を強打していた。しばらく意識があったとは言え、なぜ自分が足を踏み外したのか、起き上がって脚立を確認することは不可能だっただろう。だとすれば、中西は自分の身に何が起きたのか、正確には理解できなかったはずだ。

 脚立の踏ざんの一カ所だけが壊れてしまっていたこと、そちらの側からさえ上らなければ落ちることはなかったということ。

「娘さんは、倒れていた中西さんに脚立のどこが壊れていたのかを説明したんじゃないかしら。そして、こう言った。——お父さんは《ただ、運が悪かっただけ》」

 お父さんのせいじゃないの。たまたま、お父さんが使った側だけが壊れていたのよ。——傍からは慰めているようにしか聞こえなかっただろうその言葉は、中西の耳にはどう響いたか。そして、その言葉を口にした彼女の思いは、どんなものだったのか。

 天は、神様は、あなたの味方なんかじゃない。

 あなたの人生は、正しくなんてなかった——

 だからこそ、彼は『どうして、俺が』と繰り返していたのではないか。どうして正しい行いをしてきたこの俺が、よりによって二択を外すのか、と。

「……娘さんは、床に倒れている中西さんを放って、脚立のどこが壊れていたのかを調べたってこと?」

「ううん、彼女はきっと、その前から脚立が壊れていることを知っていた」

 私は、布団(ふとん)の端を強く握りしめながら言った。

 そう、その可能性には早い段階から気づいていたのだ。

「彼女は、縁側から脚立を運び込んだと警察には証言していたみたいだけど、あなたには父親がドアを押さえながら、ふらつく自分を笑って見ていたとも言っていたんでしょう? よく考えるとそれはおかしいわよね? 縁側のような引き戸は押さえておく必要がないんだから」

 夫の両目が、静かに見開かれる。私はその目を真っ直ぐに見据えながら続けた。

「つまり、彼女は本当は縁側からではなく、玄関から入った——そして、玄関から入ったのであれば、脚を伸ばしたまま運んだわけがない」

 夫は玄関から脚を縮めた脚立を運び込んだとき、それでも壁に脚が当たりそうだったと言っていたのだから。

「あなたは、壊れていたのは脚を伸縮させるための留め具を動かす際に必ずつかむ場所だと言っていたでしょう」

 だとすれば、玄関から入ろうとして、脚立の脚を縮めた彼女が損壊に気づかなかったはずがない。けれど彼女は——わざとそのことを、父親が使う前に伝えなかった。

「どうして……」

 夫が視線をさまよわせる。私は視界が暗く狭くなっていくのを感じながら、懸命に口を動かした。

「彼女は、父親を試そうとしたんじゃないかしら」

 ——そんなに運がいいと言うのなら、助かってみなさいよ。壊れていない側を選んでみなさいよ。

 彼女には、父親をわざと壊れた方へ誘導することもできたはずだ。だが、おそらくそうはしなかった。本当にただ、試した。

 父親の理屈が正しいのかどうかを、それこそ天に問うような気持ちで。

 そして、中西は、その賭けに負けたのだ。

「娘さんは、助からない病気だったんでしょう?」

 不治の病を抱えた身体で、彼女は父親が自慢げに口にする「運は自分の行い次第で変わるのだ」という——運不運も自己責任なのだという理屈を、どう聞いたのか。

「十和子」

 夫の慌てたような声が近くから聞こえた。

「十和子、少し休もう」

 背中に夫の手のひらの感触がするのに、私にはもう、その熱が感じられない。指先が震え、呼吸が速く浅くなる。

「娘さんは、気づいていて言わなかったの」

 一瞬、背中に触れた夫の手が小さく跳ねた。私は、目をきつくつむる。

 ——私の考えが本当のことなのかどうかなんて、わからない。確かめようもない。

 だけど、それでも私は断言した。

「だから、あなたのせいじゃなかった」

 私は背中を丸めたまま動かない。いや、動けなかった。

 身体を捻って、夫の方を振り向きたい。夫を抱きしめ、ずっと彼がしてくれてきたように、私もその背中を撫でてあげたい。そう思いながらも、自分の身体にはもうそれだけの力さえ残っていない。

 でも、もし、私の理屈くささが、この人の荷物を降ろすことに繋がったなら——

「十和子」

 夫の声がかすれ、そのまま嗚咽(おえつ)に変わる。

 耳の奥で響き続けていた鉋の音が、遠ざかっていくのを感じた。


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