余韻を味わうにはどうする?
突然人生の帰路に立ったとき、あなたは最善の選択ができるだろうか?
できないかも…と思った人には、「日頃から余韻を味わうことが大切だ説」を推したい。
なぜ余韻を味わうと良い選択ができるのか、その仕組みは前回の記事を読んでもらえると分かるので、今回は「余韻を味わうこと」について掘り下げていきたい。
本人が普段なんとなく実践していることを言語化していくので、この記事だけではまとめきれないかも知れない。
それでも読んでやるよ、とお付き合いしていただける優しい人がいれば嬉しい。
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前に書いた記事でも述べたが、余韻とは「体験したあとの自分の感情の動き」だとわたしは考えている。
体験とはなんだろう。
議論が紛糾した仕事の打ち合わせや、仕事終わりに会った友達とのご飯、年に数回しか会えない実家の家族との旅行……。
そんな日々の何でもない出来事やルーチン、それらすべてを体験と定義する。
最中は体験することに必死なので、感情を観察するのは、体験し終わった後だ。
友達といっぱい話して楽しかったなぁ、でもちょっと疲れた。
なんでわたしの言うことが伝わらないんだ。あいつは話せない。でも悪いやつじゃないからなぁ。
実家でゆっくりできてよかったな、お父さんまた耳遠くなってたな。会うたびにに年老いるなぁ…。
そんな感じで、対から次へと色々な感情は湧いては消えを繰り返す。
普段の私たちはそれらすべてを総括して、自分にとって良かったか、そうでないかを判断しているはずだ。
でも実際はこれらの感情に意味はない。その感情に紐づく体験にも善悪はない。
しかし生きていく上で、選択していく上で、判断材料が必要だ。
判断材料を得るために、善悪はないという視点を持った上で感情にラベル貼りをしていく。
これが余韻を味わうことの第一歩であり、最終的には「感情のデータ化」に繋がる。
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じゃあ第二歩は何をするのか?
「感情のデータ化」とは一体なんなんだ?
そんな不満の?声が聞こえてくるような気もするが、それについて話すのは次回に持ち越すことにしよう。
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