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リレーエッセイ「わたしの2選」/『白の闇』『停電の夜に』(紹介する人: 木下眞穂)

ポルトガル語翻訳者の木下眞穂です。子どものころから日本語の美しい表現、ぐっとくる言い回しを見つけるのが好きでした。初めて強烈に「訳したい」と思ったけれど訳せなかった本と、翻訳をやりたいのだけど……、と頭の中だけでうろうろと悩んでいた時代に出会った本をご紹介します。

『白の闇』

ポルトガル語圏唯一のノーベル賞作家、ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』とは、私が初めて原語(ポルトガル語)で読みとおした長篇小説であり、初めて「訳したい」と強烈に願いながらも「自分には無理」と自覚し、邦訳が出たときには勝手に安堵すると同時に寂しい気持ちも噛みしめた本である。

翻訳をやってみたい、というのは高校生のころからのぼんやりとした夢だった。そう思って英文学科を受験したが不合格、まあそれもよしと第二希望のポルトガル語を学ぶことにした。ところが、ゼロから始める言語では、いくら大学で学び、留学をしても、長篇小説を読みこむレベルに達するのはむずかしい。「文学」と名のつく大学の授業も「長文読解」の域を出ないものだった。留学中に名作と言われる小説にいくつか手を伸ばしてはみたものの、どうにも読めない。だからと言って、がむしゃらにどうこうしようという気概もない学生だったのだ、私は。

卒業後、幸いにもポルトガルに関連した職場で働くことになり、嫌が応でも大量の文章を読んだり書いたりしなければいけなくなった。様々な資料の翻訳も業務の一環となり「言葉を置き換える楽しさ」は、ある程度満たされていた。文芸翻訳なんて夢のまた夢、とやり過ごしていた。なにしろ、ポルトガル文学の邦訳などほとんど出ていなかったし、当時はインターネット黎明期で、原書の情報も入手も困難だったのだ。

そうこうしているうちに結婚して妊娠し、出産後に夫の赴任先のシンガポールに行くことになり退職した。その直前、ポルトガルに出張に行く同僚に「いま最も売れている現代作家の小説は何かと書店で訊ねて買ってきてほしい」と頼んでおいた。乳飲み子を抱えてはそう出歩くこともできない、読書の時間はたっぷりあるはずだ、とふんだのである。そうして手に入れたのが、ジョゼ・サラマーゴという作家の “Ensaio sobre a cegueira(見えないことの試み)”、のちに『白の闇』という邦題がつけられることになる小説だった。無知な私は、作家の名前も、当然ながら小説の内容も知らず、ただ「売れているからには面白かろう」と信じ、本を携えてシンガポールに向かった。

予想通り、暑い日中に子どもを連れて外に出るのもままならず、ひたすら静かに暮らした半年だった。視界を真っ白にしてしまう疫病の流行で、ありとあらゆる人の視力が奪われた世界はどうなるか……という小説を、赤ん坊がいつ目を覚ますかとひやひやしながら、辞書を片手に、だが夢中で読み終えた。

内容に衝撃を受け、こんなにすごい本が日本語になっていないなんて、と「翻訳したい」欲がむくむくと湧いてきた。とはいえ、帰国しても子どもも小さいし、成すすべもなく、日々を過ごしているうちに大ニュースが入った。1998年、サラマーゴがノーベル文学賞を受賞したのである! そのときの私の驚きと興奮たるや。とはいえ、この気持ちを分かち合える人が周囲に一人もいない。思い余って、新聞に解説を寄せていた東京外大の岡村多希子先生に感動の気持ちを綴って葉書を送ったところ、NHKがサラマーゴの特集番組を作るのでその資料訳を手伝わないかと声をかけてくださった。この時にたくさんの資料を読んで訳して、初めてサラマーゴがどういう作家なのかを知った。そして、訳してみたのだ。『白の闇』の冒頭を。ところが、なんとも味気ない文章が並ぶだけになった。文芸翻訳の難しさをひしひしと感じた。

冒頭に書いたように、その後、2001年に原作の世界を見事に写した雨沢泰さんによる邦訳がNHK出版から出た。その時は、ひそかに憧れていたスターの結婚の報を聞いたような気持ちだった。いいの、それでいいのよと私は一人で静かに祝杯を挙げた、それなのに、本は思ったよりも話題にはならなかった。その後、作品が映画化されて一度再版はされたけれどベストセラーには至らず、私のスターは、日本ではさしたる注目も浴びないまま表舞台から姿を消してしまった。2010年にはサラマーゴが世を去り、もうこのままなのだろうと思っていた。

ところが、世の中、何が起こるかわからないものである。
新型コロナという未知の疫病があっという間に世界に広がり、人々が恐怖に慄く姿に「これはまさに『白の闇』ではないか、しかしあれはもう絶版で……」と思いながら、何気なく検索をかけたら、版元を河出書房新社に替えてまもなく文庫化、との報が目に飛び込んできたのである。電車の中であやうく叫びそうになった。2020年2月末のことだ。

その後、『白の闇』は、世界中で売れに売れた。日本でもみんながこぞって読みはじめた。あの頃と違い、今はSNSでみんなの読後感を拾って読める。たくさんの人が驚き、恐怖に震え、面白かったと溜息をついている。そうでしょう、怖いでしょう、すごいでしょう……。みんな、やっとわかってくれたのね……。

さらに、これを機にサラマーゴ作品に興味を持つ人が増えたのだろうか、なんと、サラマーゴの小説を訳しませんかと、この私にお声がかかったのである。『白の闇』とはまったく趣を異にする、16世紀の史実を基にして描かれた『象の旅』(書肆侃侃房)という、サラマーゴらしい皮肉がたっぷり詰まった喜劇である。今年(2021年)中に出版予定なので、多くの人に読んでいただきたい。

「私なんかじゃ無理」と肩を落としてから20年。まったく、まったく、人生はわからないものだ。

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左から原書、NHK出版の単行本(2001年)、河出文庫版(2020年)

『停電の夜に』

実は、翻訳家の小川高義さんのファンである。
「私も、私も!」と手を挙げる人もいるに違いない。事実、「私も、私も!」と意気投合した人たちに、すでに出会っている。
小川さんが訳した『停電の夜に』(ジュンパ・ラヒリ著、新潮社)は言わずと知れた名作で、ここでわざわざ取り上げるのはどうだろうと思いもするが、私の目を大きく開いてくれた一冊であるのは間違いないので、お話しさせていただく。

初めて読んだのは、子どもがまだ小さくて、翻訳はおろか読書もままならない時期だった。ポルトガル語からも遠ざかり、NHKのサラマーゴの仕事をしたことから「文芸翻訳をしたい」とめらめらと燃えたはずの炎は、数年が経って胸の片隅の小さな燻りと化していた。とりあえず、目の前のことをこなすだけで精一杯だったのだ。

『停電の夜に』は、一読して虜になった。われながら留学時代によほど寂しい思いをしたのだろう、異国に住まう外国人の話に弱い(たとえば、アニカ・トールの「ステフィとネッリの物語」シリーズなども大好きだ)。インドの人は知り合いにもおらず、アメリカには住んだこともない、それなのにジュンパ・ラヒリのこの本に出てくる人たちの物語には微かな既視感があり郷愁すら覚えた。でも、惹きつけられたのはストーリーだけじゃない。なんて魅力的な訳文だろうか。どこか野暮ったさすら感じる飾らない文章なのに、微妙な感情の動きがさらりと織り込まれ、一瞬の情景がありありと目の前に迫る。

ほんの一例を挙げる。
「シュクマールは舌先で歯をぞろりと舐めた」(「停電の夜に」文庫版9ページ)。
この短い一文に、シュクマールのその時の生活ぶりと精神状態が現れているではないか(ちなみに、原文は “He ran his tongue over the tops of his teeth”)。

読んだ当時は原文まで調べなかったものの、こういう訳文を作ってもいいのか、と心底驚いた。きちきちと一語一語をひろって辞書に出ている日本語をあてがわなくていいのか、と。原文から受け取ったものを、自分の言葉でつかまえて表現するんだ、と。私もこんな訳文を作ってみたいと強く思った。

それから、小川さんの訳書を追いかけて読み、『翻訳の秘密』が出た時にはいの一番に買い求めた。2018年に開催された角田光代さんと松家仁之さんとの鼎談「海外文学のない人生なんて」にもいそいそと出かけ、「訳者とは役者である」とおっしゃるのを聞いて、ひそかに膝を打った。そうだ、そうだ。私は現在、たくさんの幸運に恵まれて文芸翻訳をしているのだが、原文を日本語に移しながら、時々、本からも、PCのスクリーンからも目を離して遠くを見る。登場人物がどこにいて、何をして、どう感じているかを四肢に行きわたらせる。声にも出してみる。動いてもみる。それから、それを表現するために、また言葉の海に潜る。これは、小川さんの訳文に教えてもらったことかもしれないと、今さら思う。

このエッセイを書くに当たって、もう一度『停電の夜に』を開いた。読むのは何度目になるのか忘れたけれど、「ピルサダさんが食事に来たころ」という短篇に、何度目になるのかわからないが、また泣かされた。

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他人に貸したままになったのであらたに買いなおした。

■執筆者プロフィール 木下眞穂(きのしたまほ)
ポルトガル語翻訳者。訳書に『ガルヴェイアスの犬』(ジョゼ・ルイス・ペイショット著・新潮社)、『忘却についての一般論』(ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著・白水社)、映画字幕「ヴィタリナ」(ペドロ・コスタ監督)など。2021年には『象の旅』(ジョゼ・サラマーゴ著、書肆侃侃房)、『エルサレム』(ゴンサロ・M・タヴァレス著、河出書房新社)、絵本『どうぶつせんきょ』(ほるぷ出版)が出る予定。次の海外旅行は目先の変わったところにと思っていたのに、コロナ禍が落ち着いたら、今はやっぱりポルトガルに行きたい。

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