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きまぐれ日本文学(井口富美子)その3 翻訳と創作を往来して - 夭折の詩人、左川ちか

日本は長く中国の影響を受けつつ独自の文学を創出してきましたが、明治になると黒船欧米文学の翻訳を通じてさらに新たな道が開かれました。詩歌では森鴎外らの『於母影』、上田敏の『海潮音』、堀口大学の『月下の一群』という訳詩集の系譜があり、それらは新体詩から象徴詩を経て現代詩へと続く道しるべとなってきました。
1920年代から欧米で始まったモダニズム文学は、日本においては小説よりも詩の分野で大輪の花を咲かせました。当時とりわけ光り輝いていたモダニズム詩人左川ちかは、女性であったこと、早世したこともあり、死後に詩集が出されたものの、長く忘れられた存在でした。1980年代に刊行された全詩集で再発見されたこの詩人は、創作と並行して詩や短編小説など英語圏のモダニズム文学を訳して発表しており、近年訳詩集も編まれています。今回はちかの詩だけでなく、訳詩やその作者、そして文学上の兄であり伴走者でもあった伊藤整も、ともに紹介したいと思います。

ちかの生涯


左川ちか(本名川崎愛(ちか))は、1911年(明治44年)2月、北海道余市郡生まれ。生来虚弱で、幼いころより死を意識せざるをえなかったと思われる。小樽高等女学校時代、異父兄川崎昇の友人だった伊藤整を知る。当時伊藤は小樽市中学校教諭で、抒情的な第一詩集『雪明りの路』(1926年)を上梓。高い評価を受け、若い女性からファンレターが届くほどだった。
一方ちかは得意な英語をさらに伸ばそうと小樽高等女学校補習科師範部に進学。 1928年(昭和3年)に上京し兄川崎昇宅に起居。同時期に教師を辞して東京商科大学に入学していた伊藤整に詩の翻訳の指導を受ける。昭和初期、詩の世界ではモダニズム運動が始まっており、ちかも昭和5年から百田宗治編集の「椎の木」をはじめとする詩誌や文芸誌に詩や翻訳詩を次々寄稿した。その若き才能は、伊藤をはじめ周囲の詩人たちを瞠目させたに違いない。だが詩人として生きたのはわずか5年。昭和11年(1936年)1月、胃がんのため死去。享年24歳。
没年に伊藤整編集で「左川ちか詩集」が刊行された。その後伊藤整は詩から小説、批評に転じ、フロイトやジェームズ・ジョイスの影響を受けた評論家、作家として活躍したが、一般には戦後のいわゆる「チャタレイ裁判」や、自伝小説『若い詩人の肖像』(1954~1956)などで知られた。

ちかの詩


詩は文学の中でも特に密度の濃い凝縮された形式といえる。読み方も、言葉が内包/発散する意味も、散文とはおのずと違ったものになる。
初めて詩誌に掲載されたちかの詩は「昆虫」(昭和5年8月、初出)

昆虫

昆虫が電流のやうな速度で繁殖した。
地殻の腫物をなめつくした。

美麗な衣裳を裏返して、都會の夜は女のやうに眠つた。

私はいま痣を乾す。
鱗のやうな皮膚は金属のやうに冷たいのである。

顔半面を塗りつぶしたこの秘密をたれもしつてはゐないのだ。

夜は、盗まれた表情を自由に廻轉さす痣のある女を有頂天にする。

次作は「朝の麺麭」(のち「朝のパン」に改題)(昭和5年10月、初出)

朝の麺麭

朝、私は窓から逃走する幾人もの友達を見る。
緑色の虫の誘惑。果樹園では靴下をぬがされた女が殺される。朝は果樹園のうしろからシルクハットをかぶってついて来る。緑色に印刷した新聞紙をかかへて。
つひに私も丘を降りなければならない。
街のカフエは美しい硝子の球体で麦色の液の中に男等の一群が溺死してゐる。彼等の衣服が液の中にひろがる。
モノクルのマダムは最後は麺麭を引きむしつて投げつける。

以上2篇、イメージは錯綜するが決してぼやけない。ちか19歳。いきなり、滝口修造も色を失うほどの、西脇順三郎が「遠いものの連結」だと定義した、まごうかたなきシュルレアリズム詩が出現している。ちかはいったいどうやって、時代の先端を行く詩作法を会得したのだろうか。

英語が開いた詩への窓


この時代の作家は、川端康成や横光利一などの新感覚派も含め、多かれ少なかれジェームズ・ジョイス、T. S. エリオット、ヴァージニア・ウルフ、エズラ・パウンド、プルーストなどの影響を受けていた。英語がよくできた左川ちかも、次々紹介される多様な欧米文学、モダニズムという時代の空気、自身の若さと禍々しいほどの才能に詩の訳業が掛け合わされ、一気に表象の高みに駆け上がったのではないかと思われる。

ちかはのちにジェイムズ・ジョイス(「室楽」)やヴァージニア・ウルフ(「憑かれた家(A Haunted House)」を訳し、その影響を受けたといわれているが、初めて詩誌に掲載された訳詩は、今日の日本ではだれも知らない “パリのアメリカ詩人” ハリー・クロスビーの作品だった。1898年ボストン生まれ、失われた世代ど真ん中、ハーバード大入学を前に第一次世界大戦に志願、九死に一生を得て帰国するも酒と乱痴気騒ぎの日々。親の支援で職を得たパリでも妻と二人「酒と薔薇の日々」は続く。フィッツジェラルドの世界を地で行くクロスビーは、“パリの英語圏”でしか活動しなかったヘミングウェイとは異なり、フランス語をマスターして文学を読み漁ると小説ではなく詩を書き始めた。やがて自分で出版社を立ち上げ、立て続けに詩集を出版。はた目には人生さあこれからという1929年12月、愛妻をパリに残し一時帰国中のニューヨーク、しかも友人の留守宅で、人妻とピストル心中を遂げた。享年31歳。関係を持ったほぼすべての女性と心中の約束をしていたとも言われる。

こんなスキャンダラスな詩人の詩を、ちかは早くも翌年の1930年10月に翻訳、発表している。クロスビーの最初の詩集は象徴主義的、第二詩集はシュルリアリズム的、第三詩集はダダイズム的、第四詩集はフロイトによる無意識の発見の影響を受け、その他に自動筆記の手法を用いた詩まであるという。生き急いだ結果なのか、節操がないのか。だが当時の前衛芸術家は総じて、目まぐるしく意匠を転換する傾向があったようだ。左川ちかはクロスビーの死にざまに魅かれたのか、あるいは“兄”伊藤が勧めたのかもしれないが、その詩に触れることで図らずも多様な文学的意匠を体験したのではないか。

詩集名か連詩のタイトルかは不明だが、ちかが訳したのは「SLEEPING TOGETHER」と題してまとめられた数篇の詩。その中の一篇「IT IS SNOWING」には、「私は死体解剖を見ることによって、戦争の恐怖を想像する。憂鬱なまで有能である看護婦はストウヴの側に坐る」、「わたしの冷たい手がなければ感情的な赤の騒擾が起こる。手はあなたの胸の冷たい貝殻の上に置かれいつのまにか白い雪の二つのかたまりである」といったフレーズがちりばめられている。

アンビバレントな関係性


訳詩に関しては伊藤整がちかを指導していたというが、詩に関してはどうも様子がちがうようだ。たとえば伊藤の詩「言葉」の冒頭に、ちかと思われる女性が出てくる。「彼女は私の中に住んでゐる言葉を皆引きずり出して悪戯したがる。私が二つ三つ取り出して預けると、彼女はそれを転がしたり歩かせたり這わせたりして私の顔を見ながら笑ふのである。(中略)彼女は常にそれらの玩具を掌に載せて、ひつくり返し、覗き、微笑み、愛撫し、暫くすると電車へ乗るのに邪魔になるといって敷石へ抛り出すのである」ちかの表現力になすすべもなく翻弄される伊藤の様子がここにうかがえないだろうか。そして何より、この詩は伊藤の第一詩集『雪明りの道』の抒情から踏み出せていないように見える。二人は並んで歩いているが、ちかの立っている場所はもはや異次元だ。

伊藤とちかとの関係をスキャンダラスに描く向きもある。だが、真実はどうあれ、ちかの眼中には恋愛も結婚もない。その証拠に彼女の詩には愛や恋の痕跡はかけらもなく、あるのは消したくても消えない死の刻印だ。父を早くに失くし、病弱な自分もいつどうなるかわからない。まるで命と引き換えのようにして与えられた才能だけを頼りに、ちかは孤独な創作の日々を生き急ぐ。

死の髯

料理人が青空を握る。四本の指跡がついて、
――次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる青服の空の看守。
日光が駆け脚でゆくのを聞く。
彼らは生命よりながい夢を牢獄の中で守つてゐる。
刺繍の裏のやうな外の世界に触れるために一匹の蛾となつて窓に突きあたる。
死の長い巻鬚が一日だけしめつけるのをやめるならば
私らは奇蹟の上で跳びあがる。
死は私の殻を脱ぐ。

遺されたもの

伊藤はちかと親しくしながら、ファンレターを寄こした女性とも秘密裡に交際し、ある日突然その人と結婚してしまった。ちかはそんな仕打ちや現実を猛然と無視しつづける。新婚の家を訊ね、翻訳のアドバイスを受けながら長々と居座ったというし、伊藤もまた悪びれずに二人で映画にいったりしたという(妻はどれほどつらかったろう)。もちろん、ちかがまったく傷ついていなかったといえばうそになるだろうけれども。

ちかが亡くなる半年ほど前(1929年8月)に発表した詩に、「海の捨子」がある(のちに「海の天使」と改題、改作)。

海の捨子

揺籃はごんごん音を立ててゐる 真白いしぶきがまひあがり 霧のやうに向ふへ引いてゆく 私は胸の羽毛を掻きむしり その上を漂ふ 眠れるものからの帰りをまつ 遠くの音楽をきく 明るい陸は肩を開いたやうだ 私は叫ばうとし 訴へようとし 波はあとから消してしまふ

私は海に捨てられた


最後にぽつんと添えられた一行、「私は海に捨てられた」が痛ましい。だがこの詩が伊藤の第二詩集(1928年1月)におさめられた同名の詩の、いわば「本歌取り」だとわかると、その意味も変わってくる。

海の捨児

私は浪の音を守唄にして眠る。
騒がしく絶間なく
繰り返して語る灰色の年老いた浪
私は涙も涸れた凄壮なその物語りを
つぎつぎに聞かされてゐて眠つてしまふ。

私は白く崩れる浪の穂を越えて
漂つてゐる捨児だ。
(中略)

浪の守唄にうつらうつらと漂つた果て
私はいつか異国の若い母親に拾ひ上げられるだらう。
そして何一つ知らない素直な少年に育ち
なぜ祭の笛や燈籠のやうなものが心の奥にうかび出るのか
どうしても解らずに暮すだらう。


と、こちらは「いつか異国の若い母親に拾ひ上げられる」のを待っている、“やわな”男だ。ちかの咆哮は耳に届いただろうか。

ミューズ、の一人、だったのかもしれないちかが死に、ちかの希望で伊藤が彼女の詩集を編纂した。妻と二人幼子がいる家で。過去に交際していた別のファンレター女とのすったもんだの最中に。太宰治も顔負けの修羅場で、ちかの残したわずか数十篇の詩を読み返しながら、伊藤は何を思ったのだろう。まあそれはよいとしよう。わたしが常々疑問に思っていたのは、なぜ伊藤はその後、「詩人左川ちか」に関して一切沈黙を通したのか、ということだ。評論家となってからも、あれだけの才能に伊藤が言及した形跡はない。嫉妬だろうか。忘れたい過去だったのだろうか。それとも、詩をあきらめたおのれと共に封印したのだろうか。伊藤を責める気はない。が、かわいい“妹”の短い生涯を飾る言霊を葬り去った真意を、わたしはただ知りたく思う。


私のおすすめ本

● 左川ちかを読むなら
『左川ちか詩集』(1936年、昭森社)、『左川ちか全詩集』(1983年、森開社)、『左川ちか全詩集 新版』(2010年、森開社)はすべて絶版で古書店でも高価。『新編 左川ちか詩集 幻の家』(2019年、東都我刊我書房、3500円)がネット販売されているようです。青空文庫は残念ながらまだ「入力中」です。「左川ちか 詩集」で検索をかけるとちかの詩が掲載されたサイトがいくつか見つかります(編者の編集権を侵犯している不正サイトもあるそうなので、こちらにリンクは張りません)。うれしいことに年内には立命館大学の島田龍先生編纂の『左川ちか詩集』が出るとのことです。

● 現代の詩なら
ちょっと乱暴な分類ですが、現代詩らしい現代詩を読みたいという方には蜂飼耳(『蜂飼耳詩集』思潮社など)、言葉の鮮烈さに酔いたいという方には小池昌代(『小池昌代詩集』思潮社)。散文だが小池の『幼年 水の町』(白水社)はおすすめ。やっぱり愛だの恋だのがいいわという方には最果タヒ(『死んでしまう系のぼくらに』リトルモアなど)。
(『蜂飼耳詩集』も『小池昌代詩集』も『モダニズム詩集〈1〉』も残念ながら絶版のようです。図書館でどうぞ)


第6回日本翻訳大賞を受賞したデボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』(ポーランド語での刊行は1935年)の訳者加藤有子さんが、「フォーゲルは長らくブルーノ・シュルツの恋人だった人としか認識されていなかった」と語っておられました。この時代の女性作家はおそらく世界中で同様の扱いを受けたのでしょう。


執筆者プロフィール 井口 富美子(いぐち ふみこ)
ドイツ語翻訳家。
大学では日本文学を専攻。学生時代は明治以降の文学史に載っている本を片っ端から読破(中には読んだふりの本も)。卒論は夏目漱石、テーマは「漱石の描く女性と近代的自我」。卒業後は日本近代文学館に就職。優秀な同僚やトップクラスの研究者、作家、編集者に鍛えられる。学生時代からドイツ映画、ドイツ現代美術に熱中し、紆余曲折の末、通訳を目指してベルリン・フンボルト大学に留学。壁崩壊前後の激動の時代を体験する。帰国後は実務翻訳で生計を立て、数年前から出版翻訳に軸足を移し、文筆活動にも手を広げている。訳書は『スマイラーとスフィンクス』『デヴォリューションの虜囚』(以上、早川書房)、『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』(共訳、左右社)『夜ふけに読みたい 動物たちのグリム童話』 (監訳、平凡社)。

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