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【2021夏特集企画】みんなに知ってほしい! わたしの尊敬する「翻訳・ことばの先人」1 翻訳家・山岡洋一氏追悼10周年

翻訳家の山岡洋一氏が2011年8月20日に逝去して今年で10年になります。『ビジョナリー・カンパニー』『国富論』をはじめとするビジネス書や古典新訳など多数の訳書を手がけた山岡氏。「翻訳通信」の発行、『翻訳訳語辞典』の公開などを通じて、翻訳業界の発展や後進の指導にも献身してこられました。その山岡洋一氏没後10年にあたり、当Webzineでは2021年6月20日から7月20日にかけてアンケートを実施しました。ご回答をお寄せくださった皆さま、ありがとうございました!

特集第1弾として、山岡洋一氏についての回答をご紹介します。

山岡洋一氏との思い出

アンケートのQ5. では山岡洋一氏の著書や訳書、ご生前の思い出についてお聞きしました。Webzine執筆陣の回答とあわせてご紹介します。

ノンフィクション・文芸出版翻訳者/金井真弓さん ノンフィクション忘年会でお手伝いを募集していた時に応募したご縁で、初めて山岡さんとお会いしたことを覚えています。今から14年くらい前でした。駆け出し翻訳者のわたしはただもう恐縮するばかりでしたが、山岡さんは労いの言葉を優しくかけてくださいました。翻訳業界のことを熱く語っていらしたのを、固くなって拝聴していたのはいい思い出です。

ノンフィクション出版翻訳者/児島修さん 山岡さんがご自宅とは別の場所に借りていた仕事場に何人かで遊びに行ったことがあります。廊下にも部屋にも本棚が所狭しと並べられていて、SFや科学書など氏の専門外の分野も含めて大量の本がありました。忘年会でお会いしたときに、「一流の文章を読め、原書と訳書をつき合わせて勉強しろ」とアドバイスしてくださったのもいい思い出です。葬儀にも友人の翻訳者と一緒に参加しました。葬儀会場にずらりと並べられた訳書を見て、翻訳者の生き様を感じました。今更ながら山岡さんの存在の大きさを感じます。そのことをあらためて思い起こさせてくれた今回の企画に心より感謝します。

英日翻訳者/菊地清香さん オンライン辞書『翻訳訳語辞典』は日々の仕事に欠かせず、ご著書『翻訳とは何か』は読むたびに思わず姿勢を正したくなるような刺激をいただきます。ご生前にお会いしてご挨拶することがかなわかったのが本当に残念です。

ノンフィクション出版・文芸翻訳者/神崎朗子さん 山岡さんともっとご縁の深い方々がたくさんおられますが、感謝をこめて、私も花一輪手向ける気持ちで思い出を綴らせていただきます。「翻訳通信」の読者だった私は、2010年8月28日、「翻訳通信100号記念セミナー」およびパーティーで、初めて山岡さんにお目にかかりました。山のように大きなお姿を前にして緊張しましたが、山岡さんは駆け出しの私にもあたたかく接してくださり、私も勇気を振り絞って、「翻訳通信」から多くのことを学ばせていただいていることについて、お礼を申し上げることができました。当時、「翻訳通信」では読者からの投稿(古典新訳など)の募集が始まっていました。その場で、山岡さんに「投稿してよ」とお声がけいただいたことに背中を押され、私は無謀にも古典新訳に挑戦し、2011年4月5日、「翻訳通信」の規定のフォームで訳文を提出しました。山岡さんからすぐにメールで受領のご連絡がありました。

2011年5月5日、山岡さんからお電話がありました。
「語彙が豊かで、将来性を感じる。ただし、既訳にとらわれているいっぽうで、既訳にはない誤訳がある。いかにもイギリスらしい皮肉も効いていない。もっと分量は短くていいから、原文だけ読んでもう一度やってみて」

私が訳したのは、畏れ多くも、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』の第1章から第11章でした。この作品が大好きで、当時、文庫版で入手できたのは阿部知二、富田彬、中野康司、中野好夫など男性の翻訳家による訳ばかりだったので、訳してみたくなったのです(私がいちばん好きなのは中野好夫訳でした。その後、光文社古典新訳文庫から小尾芙佐訳が刊行されたのは、2011年11月のことです)。私が身の程知らずをお詫びすると、山岡さんは「それはいいんだよ。ある程度、有名な作品じゃないと、誰も読んでくれないから。でも、別の作品でもいいかもしれない」とおっしゃいました。「いま仕事の予定が詰まっているので、少し考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」と私が言うと、山岡さんが明るいお声で言いました。
「もちろん、いいよ。こちらはちっとも急がないんだから」

その3か月後、2011年8月20日、山岡洋一さん急逝のお知らせ。信じられませんでした。
8月27日の告別式に、友人と参列しました。山岡さんの訳書がずらりと並ぶなか、心のこもった弔辞が読まれ、みんな泣いていました。御命日には、葬儀の際にいただいた小冊子「翻訳家・山岡洋一さん その仕事と思想」を読み返しています。

実務翻訳者/生方眞美さん 山岡氏がお亡くなりになられたのは、まだ駆け出しの頃でした。何かのきっかけで「翻訳通信」を知り、読み始めたところで訃報に接したので、翻訳界にとって大きな存在でいらしたことを実感したのは逝去なさった後でした。

実務翻訳者/asanoha17さん 「翻訳通信」100号記念関西セミナーに参加し、講演を拝聴しました。懇親会の2次会で山岡氏とお話する機会が少しありましたが、翻訳業界に入ってまだ数年だった私は、気の利いた質問の一つもできませんでした(今なら聞いてみたいことがいろいろありますが)。それでも、「がんばってください」と優しく言葉を返してくださったことを覚えています。

『翻訳とは何か』への思い

山岡洋一氏の代表著書『翻訳とは何か 職業としての翻訳』。初版2001年から20年を経た今もなお現役翻訳者の間で読み継がれています。

アンケートでは、本書で特に印象に残る箇所や全体の感想についてお聞きしました。

第1章 翻訳とは何か

つまり「現著者が日本語で書くとしたらこう書くだろう」と思える訳文にし、原文の表面ではなく、原文の意図に忠実であろうとするのが森鴎外のスタイルなのだ。

第3章 翻訳の技術

ノンフィクション出版・文芸翻訳者/神崎朗子さん 翻訳者として心に刻み、折にふれて読み返したい言葉がいくつも書かれている。

・p.119 翻訳の目的はなにか。「原文の意味を伝える翻訳」の目的は、原文を読まない読者に原文の意図や意味を伝えることである。翻訳にはこのような目的があるので、それに見合った方法がとられている。翻訳にあたっては、第一に、原文の表面を手掛かりにして原著者の意図を理解する。そのために必要であれば、辞書はもちろん、さまざまな資料や文献を調べていく。第二に、原著者が伝えようとした内容を、原著者が日本語で書くとしたらこう書くだろうと思える日本語で執筆していく。

・p.148~p.149 楽譜を読む技術がいくらすぐれていても、歌という形で表現する技術がすぐれていなければ、歌手にはなれない。
 翻訳者の場合なら、外国語を読む技術、内容を理解する技術がいくらすぐれていても、読み、理解した内容を読者に伝える技術がすぐれていなければ、なんの意味もない。読み、理解するのは、読者に伝わる文章を書くためなのだ。翻訳者が売っているのは、外国語を読む技術ではない(まして「語学力」ではない)。内容を理解する技術でもない。売っているのは訳文だけである。文章の力がなくては、翻訳はできない。

実務翻訳者/渡辺さん p.150以降の「技術以前」に書かれている、技術以上に、翻訳の目的が重要だという考え方に共感しました。特許翻訳という自分の仕事は、外国の優れた技術を日本で権利化し、日本の優れた技術を外国で権利化するという目的があるからこそ必要とされています。そこで生じる責任感が、自分の原動力になっているんだと思います。

実務翻訳者/光井彰子さん  p.125以降の「外国語を読む技術」では、外国語の読解能力が3段階に分かれるとの説が展開されています。第一が外国語を学ぶために読む段階で、第二は外国語を道具として使いこなす段階。ここまでは比較的簡単に到達できるが、翻訳者はさらに上の段階、つまり『(第一と第二を)一段と高い水準で組み合わせ』『外国語と日本語の違いをあらゆる面で再意識化』できる段階に達していなければならないと。これから翻訳者を目指す方だけでなく、現役の翻訳者が(経験年数を問わず)折にふれて噛みしめたい教えだと思います。

実務翻訳者/生方眞美さん 「翻訳だから、そこまでの文章力は必要ないと考えるのは、錯覚か甘えか傲慢かのいずれかだ。」が胸に突き刺さりました。
本全体の感想:印象に残る部分として第3章を挙げましたが、第2章も同じくらい心に残る箇所です。翻訳という歴史の長い職業の一端を担っていることを忘れないようにしなければ、と読むたびに身の引き締まる思いがします。そして、その時々の状況、あるいは自分の中の変化に伴って、心に響く箇所が変わっていく本だとも思います。

第4章「翻訳の市場」

八方美人になる必要はない。一億人に支持される訳文を書く必要はない。ごく少数の強い読者を獲得できる訳文を書けばいい。もっとも、自分が訳した本がベストセラーになったとき、自分の翻訳が読者に支持されたと考えるべきではない。支持されたのは原著者であり、原著であり、書名や装丁であるのが通常だからだ。

インドネシア語通訳・翻訳者/土部隆行さん やみくもに技能を磨くばかりでなく、こうした(市場などの)面にも目を向けねばと意識するきっかけの一つとなったため。『翻訳とは何か』は、刊行されて間もない頃に読みましたが、当時まだ五里霧中だった私にとって一筋の光明となってくれました。二十年経つ今また読み返しても示唆に富む名著だと思います。本当は一つの章だけを選ぶのは難しく、どの章もそれぞれ深く印象に残っています。

第6章 職業としての翻訳

翻訳とは、書く仕事の全体に対して責任を負う仕事だ。だからこそ、魅力のある仕事なのだ。

ノンフィクション出版翻訳者/児島修さん 「学習と継続がなければ独創性はない」などの至言の数々。若い頃に読んで印象的だったところに赤線を引きましたが、今読み返すと当時の自分がこの本のどんなところにインパクトを受けていたのかがわかりいっそう興味深いです。

実務・出版翻訳者/久志本克己さん この本と別宮(貞徳)さんの本は、何度も読み返しました。いい本です。いろいろと考えさせられました。

実務・出版翻訳者/菊地清香さん p.232「少なくとも現代の日本では、翻訳は地味で地位の低い職業なのだ。」から始まる段落に、翻訳業の難しさと魅力が凝縮されている。翻訳の世界史から現代日本でよい翻訳をするためのコツまで、広い視点と狭い視点の両方で「翻訳」という仕事をこれほど深く論じている書籍は他にないと思います。

終わりに 文化としての翻訳

実務翻訳者/asanoha17さん 「翻訳の質を社会全体が認めるようになることが大切である」という一文に考えさせられます。

貴重なエピソードや熱い思いを綴って下さった皆さまにお礼申し上げます。

翻訳者としてだけでなく、翻訳という職業を内外に伝え、多くの翻訳者や言葉のプロを指導してこられた山岡洋一氏にあらためて感謝と追悼の意を捧げたいと思います。読者の皆さまにも、これを機に『翻訳とは何か』を読み返し、山岡洋一氏をはじめすぐれた翻訳の先人達の功績をあらためて思う機会になればと願っています。

アンケート「Q1. 尊敬する翻訳・ことばの先人」の回答は次回発表します。どうぞお楽しみに。

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