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ディスクロージャー

最近、自坊では、法事用のお経本を新たに作成した。
書き下し文(訓読)と日蓮聖人の手紙が載っているのだが、法事前に掻い摘んで経文の説明などをしている。
ポイントだけでもわかってもらうだけで、よく意味がわからないものを唱えさせられているではなく。説明責任を果たすことで意味ある時間に変わることを願っています。
真読(俗にいう漢文)では、意味が取りづらいが訓読だと意味が伝わる。多少、法事の時間が増えるが、納得すると唱えてくれるのでほっとする。
また法要終了後は故人のことや亡くなられてから過ごして来た時間についてお聞かせねがっている。
参列者の話を聞き、最後にお話をするのだが、仏教語を使うのではなく、一人の人間として生前の故人との交流を話すことが多い。
時には対話から涙が流れる方もいる。私が話すではなく、話させられている感覚になる。それはご縁であり一期一会であり、まさに再現性がない。
コロナ以前は、経文の説明はしていたが、法要後は一方的に話す形であった。聞くことをメインにしたが故に、シナリオがないこと。必要以上に喋らないことになり、対話中心に変わった。コロナ禍になり法要後の食事の時間がなくなったから行うようになったことであり、怪我の産物みたいなものでもある。
対話の時間は故人を知ることであり、参列者の気持ちを知る時間であり、次世代が同席すればバトンタッチの時間でもある。
時には驚いたり、笑ったり、泣きそうになったりする。立ち止まる、考える、成長する時間をいただいていると思う。
法事とは、自分の生命の源流を感じ、一人で生きているのではなく、死者との関連、バトンタッチにより生かされていることを感じる機会であり、最高の供養とは、故人の良き部分を引き継ぎ、悪しき部分を反面教師として、我々がよりよく生きることではないかと話している。

ちなみに僧侶ぽくないが…信仰はやはり説いてはいない。経典の意味を説いている。

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