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遠近両用

毎日、コーヒーを飲むが、とある講演でフェアトレードのものを選ぶことで、コーヒー産出国の作業従事者の生活を助けることにつながること、イギリス人はフェアトレードコーヒーを飲むようにしている方がいて、日本ではフェアトレードコーヒーが簡単に手に入らないことを嘆いているという話を聞いた。

わたしもそれを聞いてから、フェアトレードコーヒーをなるべく使いたいと考え、日常で買える場所はないか?と考えていた。そんな時見つけて、使い始めたのが、セブンイレブンのフェアトレードコーヒーでした。


ところが、このところセール品の棚にあって…なくなるのかと思っていら…案の定なくなりました。ネットでセブンイレブンをみてもないので…悲しいのー。

さて、日本とイギリスの視点の違い、今回のようなことが起こるのはなぜか?という点を説明してくれているのは…

『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』

作者であるブレイディみかこさんが、7年ぶりにイギリスから日本に帰国するとテレビを見て驚いたこととして、「日中のコマーシャル(特に午前中)が、実年齢より10歳若く見えたり、20歳若く見えたりする商品の宣伝ばかりになっていたのである。」(199頁)と述べている。対して英国では「月20ポンドで発展途上国の子どものフォスターペアレントになりませんかとか、週に1ポンド寄付するだけでアフリカの村にきれいな水を提供することができるんですとかいう、慈善団体の宣伝だ。」(199頁)というのだ。

それをブレイディさんは

英国の高齢者が財の紐をゆるめる対象はどこか遠くの物事であるのに対し、日本の高齢者がそうするのは最も近いところにある自分自身(の外見)であることに大きな差異を感じるのだ。「意識の高低」でなく、「意識の遠近」と言ってもいい。実際に見ることができない遠くのもの(しかも、時間をかけて育ったり、達成したもの)を想像するスキルがエンパシーだとすれば、英国の高齢者の多くはその能力を使うことを楽しんでいるから慈善団体にお金を払うのだろう。

と述べている。今回のフェアトレードコーヒーの件もそれに類するものかもしれない。日本人の目線が近すぎるということであろう。遠くを世界とする位置だけでなく、時間という観点も大事であろう。

最近出版された『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』

では、ユニリーバのCEOの以下の言葉が引用されている。

倫理観を持ち、長期的に正しいことを行い、コミュニティを大切にすることこそが、責任あるビジネスを行うための方法である(234頁)

ここでの表現は、寺院も同じではないだろうか。コミュニティに存在し、長期に渡って存在してきた。そして布施という定価があるものでないものを預かってきた。それは、布施に値する生き方をするという考え方に基づいていたとも言える。

一方で著者は以下のごとく指摘している。

ビジネスリーダーの中には「グリーンウオッシュ」(自社の利益のために、根拠や実体を伴わない環境保護メッセージを発すること)だけでなく、私が言うところの「ロングウオッシュ」(明日の世界の福祉のためではなく、主に自社の収益のために長期的な戦略を立てること)に長じた人が増えている。(234頁)

これは、我々も同じである。わかっちゃいるけどやめられない的なものであろう。長期に渡る信頼や信用を大切にしない。説明責任を果たしていない寺院のケースがあることは、仏教情報センターでも昨今体験した戒名カフェでも相談者から教えられた。

一方で、ブッダは下記の如く述べます。

目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。(中村元訳『ブッダのことば』「第一、蛇の章、八.慈しみ p37」)

ブッダの幸せすなわちエンパシーは長期で遠くをみる思考であります。他者の痛みをどう捉えるか、自坊では、間伐材塔婆やフェアトレード作務衣など消費活動に工夫をしている。

これは、寺院にとっても社会にとってやさしい企画である。特に間伐材塔婆は、寺院、業社だけでなく障害者という社会的弱者の援助にもつながる。

同様に寺院のトイレでは上記のトイレットペーパーを使用している。

すぐに反応があるわけではないが、長期視点の社会貢献は、ただお金を渡すのでなく、働くという充実感を大切にしつつ、それに対する報酬という形が好ましいと考えている。長き先をみつつも、今も無視しない遠近両用な消費による社会貢献は今後も考えていきたいと思っている。

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