排斥をどううけめるか
ロシアのウクライナへの侵攻が続いている。戦争は人の命を奪う者であり、宗教が云々とか仏教が云々という前に肯定できるものではないと思う。ただ、気をつけなければならないのは、ロシアを否定してもロシア人を不当に排斥することは考えなければならないと思う。
国家や為政者が戦争を行うことを判断した場合、それを止めようとする行いは命がけになる場合もある。また国内報道も偏向するであろうから、自国の正当性を洗脳されるケースは多い。
また、日本に住むロシア人は、日本での報道を見ていておそらくロシアの侵略を肯定する方々は少ないのではないだろうか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/42201dbc59d0599805887feed010f5f56002e25e
こんなことを思ったのは、『ブッダが説いた幸せな生き方 (岩波新書 新赤版 1879)』の下記の文章を読んだからです。
仏教国ブータンでの例を挙げることができます。ブータンは、インドから国内に不法に陣取ったアッサム独立派ゲリラを駆逐するために二〇〇三年末に戦闘行為を余儀なくされました。十二月十五日に軍事行動を開始するにあたって、第四代国王ジクメ・センゲ・ワンチュック(一九五五年生。在位:一九七二ー二〇〇六)は、全兵士および全義勇兵を前に訓示しました。ところが誰もが驚いたのは、それに先だって、中央僧院のヤンペロポン(声明博士)の位にある高僧が、次のように話したことです。 「あなた方には、あるいは夫として、子どもとして、親として、兄弟として、友達として、愛しい人がいる。それと同じように、敵対相手であるゲリラ兵の一人ひとりにも、愛しい人がいることに変わりない。それゆえにあなた方は慈悲の心を持たねばならず、仏教徒としては殺生が認められると思っては絶対にならない」と説きました。一人の義勇兵はそれを聞いたときに、信じられなかったと回想しています
今こそ、相手の心情を想像する力が必要になっているとおもう。ブッダの言葉に生まれた身分を問うのでなく、その人の行いを問えと言っています。
生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンとなる。(中村元訳『ブッダのことば』第一、蛇の章、七.賤しい人 p35)
だとすれば、ロシアに生まれたことでなく、その人のあり方を問うことが必要ではないでしょうか?
ロシア人=侵略者 的な考えはかなり危険ではないだろうか。(ロシアの民主主義や選挙や報道がまともに運営されているかが、今までも世界的に議論の対象になってきたことも忘れてはならない。)
「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、「国を憎んで出身者を憎まず」であるべきだし、冷静な行動が求められるのではないだろうか
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