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メタ認知

毎朝の日課で読書をしている。積読も多いので、あれを読んだり、これを読んだりという感じでなかなか読了とはいかないが…

さて今朝読んでいたのは、『ナナメの夕暮れ (文春文庫 わ 25-2) 』

その中で次の一節に目が行った。


皆さんは芸人がネタ作りをする時に、なぜ作家がいた方が良いのかピンと来ないかもしれない。何が良いかというと客観的な視点が入ることだ。例えばこのあいだ「ロートのCMで鳩がいっぱい飛んでることって今の若い子分かるかな?」と聞くと「『SMAP×SMAP』でそのCM流れてたから分かるんじゃない?」という情報を提示してくれたりする。 そういった情報はネットで検索しても出てこない。(88頁)

客観的視点の必要性が述べられている。仏教学者の横山絋一先生は『NHKこころの時代~宗教・人生~ 唯識に生きる (NHKシリーズ)』


私が私自身と認める「自分」、私にとっての「他者」、自分と他者とを取り巻く自然、そしてあらゆるものを含む宇宙、これらすべては本当に私の外に存在するのでしょうか。〈唯識〉は、それらはすべて外界には存在せず、「一人一宇宙」の中に存在すると説きます。(17頁)

と説いていて一人一人の認識は異なることを述べています。私が今見ている風景は、それぞれの人生経験や欲望のあり方で隣のひとがみている風景とは異なるということでしょう。

仏教は正見すなわち正しい見解を大切にしてきました。一方で、人間には必ず欲望がついてまわります。都合でみてしまうのです。それを無くすというのは、難しく、制御することを強調しています。
『ブッダ 繊細な人の不安がおだやかに消える100の言葉』

自分を手なずける自分の主は自分自身である。自分の拠り所は自分自身である。だからこそ、商人が賢い馬を手なずけるように、自分自身を制御せよ。『ダンマパダ』380

無くすでなく、制御するという視点は現実的です。逆に言えば、自分の都合でみない、客観的にみるが難しいことが見えてきます。

自分の世界、自分の価値観に囚われるのは、仕方ない。修行で自己を制御しようというのが仏教の考えであり、それが目的(悟り)ですが、それはなかなか難しく、努力目標といったものと言えましょう。

そこで客観的に見るのに必要なのは、自分以外の視点であり、意見なのでしょう。

コロナ禍になり、オンラインでデスカフェや生老病死のワークショップをしています。その中で感じるのは、対話が客観性を与えてくれる感覚です。自分の見、考えていることは絶対ではない。考え方、価値観の違いを知ることができるのです。

ただし、これも心理的安全性が必要です。顔と名前が一致し、無責任な発言が起こらないことや誰がどんな発言したかを外に漏らさない環境づくりが必要なのだと思う。


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