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死者と祖先

『死者と霊性』を読んでいた。

同時並行的に『宗教の凋落?』も読み始めて

いるが、リンクするところがあり面白い。

宗教の世俗化の問題に関しては、『宗教の凋落?』でも問題にされている。

https://note.com/millionsmiles/n/ne9cb85a06a5a

『死者と霊性』の《座談会》第三部では 中島岳志先生が

宗教が持っていた全体性が失われて分化していくことが、まず一つです。つまり、医療とか教育とか、あるいは政治もですけどそれらが宗教的な領域から分化されていく。そういう全体性を失っていくのが第一段階である。第二段階は、宗教の私事化です。パブリックなところではなくてプライベート、自分自身という個の内面の悩みとか、そういうものに呼応する商品のようなものが宗教である段階。三つ目は宗教そのものが減退化していく。そういうある種のテーゼみたいなものがあります。(134頁)

上記のごとくの三段階で言うなら、日本は現在第3段階と言えましょう。現在の宗教の世俗化の傾向に関しては、『宗教の凋落?』ではデータに基づき書かれている。

いづれにせよ世俗化は止まらない傾向にあるのは、よくわかる。

一方で『死者と霊性』では、死者との関連をかなり突っ込んだ議論を展開している。中島隆博先生が以下のごとく述べている

死者を誰がどう祀るのかという時に、血がつながっていなくても、あるいは全然関係がなくても死者を祀るということが可能になったほうが、よりましだという気がするんです。(165頁)

この考えは、近年発表された『グッド・アンセスター』の翻訳での葛藤にも通じる。「先祖」と訳すのか「祖先」と訳者の松本紹圭師が述べている。

更に『死者と霊性』座談会で、中島岳志先生は下記のごとき発言をしている。

いまの民主主義をどうやったら立て直せますか。とよく質問をされるのですね。その時に僕は、仏事を立て直すことだと、言ってきたんです。葬式とか三回忌とか、そういった仏事を立て直すことだと言うと、政治記者の方はみんなキョトンとして、「は?」という顔をされるんです。僕にとっては大真面目で、それこそが立憲主義を立て直す、民主主義の根本にある問題だとおもうのですが、世の中ではそうかんたんには通じない話になってしまっている。(167頁)

法事、葬式をする過去へ思いをはせる。それが立憲主義の要と言いたいのであろう。この文章だけではわかりずらいので、『死者と霊性』に収録されている中島岳志「死者のビオス」では

憲法の受け手になることは、死者からの信託を引き受けることであり、そのことを通じて、死者たちを利他の主体へと押し上げることに他ならない。憲法を守ることは、憲法の文言を変えないことと同義ではない。文言の背後にある死者の経験値を継承し、時に微調整を加えることが、憲法を守ることにつながる。(186頁)

と述べている。立憲主義が死者の意見、叡智に基づくのに対し、民主という生者の意見のみで考える危険を述べている。

また、『グッド・アンセスター』では、

民主主義に関して、未来への責任という視点で見ている。

 現在主義政治の最大の問題は、代表制民主主義が未来の人々の利益を組織的に無視していることにある。明日の市民には何の権利も与えられておらず、彼らの生活に間違いなく影響を与えるはずの今日の決定についても、大多数の国では、彼らの利益や潜在的な意見を代表する公的機関も存在しない(194頁)

『死者と霊性』『グッド・アンセスター』から見えるのは、現在の民主主義が今の生者の権利のみを主張しているということが見えてきます。

100de名著『災害を考える』

ではセネカ『生の短さについて』に触れ

幾許かの時が過ぎたとしよう。賢者は回想によってその過去を把握する。                           時が今としよう。賢者はその今を活用する。時が未だ来らずとしよう。賢者はその未来を予期する。賢者はあらゆる時を一つに融合することによって、みずからの生を悠久のものとするのである。                                        セネカは、現在・過去・未来という三つ時間があり、これらを融合し、一つの「時」として生きられる人が賢者であるというのです。いたずらに未来をつかもうとするのではなく、過去に戻ろうとするのでもなく、過去と深くつながりながら現在に根を下ろし、未来に向かって生きていく。それこそが大事だとセネカは考えていました。(62頁)

賢者と限定していますが、我々が賢者になるための提言ですから過去と未来を共に理解し、今をいきるが必要なのでしょう。

ブッダは以下のように述べます。

目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。(『ブッダの言葉(スッタニパータ)』中村元訳、岩波文庫 37頁)

生まれたものすなわち今と過去、生まれようとするもの未来をともに幸せであることを願っています。今さえ良ければよいという考えではなかったと思います。

ちなみに我田引水ですが日蓮聖人は『撰時抄』で「外典に曰く未萠(みぼう)をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という」と述べ、予言とその的中を誇るかのような表現をします。しかし、これは予言が当たったということより、未来の不幸を止められなかったという後悔の念も含まれているようにも感じます。

過去を大切にし、未来を予想し、今を丁寧に生きる。宗教が世俗化する、脱宗教化(ポストレリジョン)するとしてもこの視点は失ってはならないと思います。

ポストレリジョンを表面する松本紹圭さんはグッド・アンセスターデイを設けようという運動も展開しようとしています。

私は当日は仕事で見れませんが、課金して、後でユーチューブを見させて貰います。体験してみては?

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