場所か時間か
寺院の住職をしていると、寺院という場所の価値を高くみてしまう。もちろん人の一生では計れない時間を過ごしている寺院がほとんどである。そのバトンを受けついでいるのだから当然そこには、責任がある。
しかし、その場所は今となっては色々と違いがある。自坊のある高津戸町の年齢別の人口比率を過日教えてもらったが、二十代、三十代が圧倒的にすくない。それは、このままではコミュニティがすたれ、立ち行かなくなると考えられる。
寺院という場所を維持する、檀家というコアファンが自然減っていくことは決まっている。
では、場所の価値を高める。すなわち何とか人を引き込むを考えるか?檀家さんを増やすべく、墓地を?というのもなんとなく違うと感じる。
信頼というコミニティ、支えていただける関係性をどう築くか?という問題は確かに地域にねずく部分は大きいが…それだけではないのではないか?
寺院の使命、住職の使命を考えると、結局場所に囚われざろうえなくなる。
円覚寺の横田老師ではないが、僧侶の使命というと、修行と布教となり、場に囚われない、遊行者となる。
https://www.engakuji.or.jp/blog/33688/
近年、個人的には住職としてのあるべき姿はもちろん大切で手を抜くことはないが、僧侶としての使命の方がウエイトがあがっていると感じる。
それ故に、オンラインを用いてデス・カフェや「生老病死を考えるワークショップ」、読書会を知り合いという私個人に紐付いた中で行うようになってきた。
場所より時間の共有をコミニティの核と考え、人と関わることを目指してきたと言えるかもしれない。
これは、人とつながること、そこで立ち止まり考えることが私にとっての布教であり、修行であるといことなのかもしれない。
多様な価値観に触れ、自分を見定める作業と言えよう。
コロナ禍故に、行い、得たものでもある。いかなる状態でも考え、成長したいと考えている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?