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骨か土か

寺葬儀がおわり火葬する。思入れがあろうとなかろうと行為はかわらない。しかし、人間であるから感情は生じてしまう。釜から出され茶毘にふされたお骨を見る。かなり考えさせられた。通常、泡立たない気持ちが今回は…遺族と対話しながら、おもったのは…色々な考えがあるだろうが、お骨てなく土になって出てくるならどうだろうと…

確かにブッダは荼毘にふされている。我々も今のままなら荼毘にふされる。それでよいのか?

土葬がよいとは言わないし、言えない。それこそコミニティもなく、現在となればその方法を行う、行えるスタッフはいない。

しかし、ヒューマンコンポスティングができ、肥料化したなら、庭に木を植え、土とともに埋めてもらえるならそれもよいかもしれない。

葬儀や戒名を否定しているのではない。現行法律や慣習を否定しているのでもない。もし、大切な方を送りだし、墓に埋めるならどうすると自分は納得できるか?

自然に戻るがよいだろうし、大切な方々の生活のそばで木陰をつくる存在になるならよいかもと感じる。多様性の中で選択できる環境が整えば、ヒューマンコンポスティングを選ぶ気がする。

骨がよい人がいてもよい。土葬でもよい。鳥葬は…難しいだろうが…

犯罪性や環境破壊につながらない範囲での多様性や選択権はあってよいのではないか?と個人的には思う。

檀家制度すなわちメンバーシップ性は墓によって担保されてきた。ヒューマンコンポスティングが可能になると現在の檀家制度は崩壊する可能性はある。しかし、生まれながらにして檀家、選択権がない状態が是か?

信頼性を高める努力もなく、あぐらをかいていないか?自分も例外ではないが、ヒューマンコンポスティングが将来選択肢に入ってもこの寺院と関わりたい。檀家であり続けたいと思ってもらえる。運営や生活ができているか?を考えるべきだと…

自信はこれっぽちもないが…それがよいと個人的には思う。公明正大だし、気持ちよく生きられると…

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