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みんな樺太に向かった:樺太発展の足跡

(稚内北星学園大学の授業で、学生が書いた記事)

日露戦争終結後の1905年(明治38年)、樺太の北緯50度以南、「南樺太」は、日本領土となりました。その後、太平洋戦争が終わった1945年(昭和20年)までの40年間、樺太で人々はどんな思いで樺太に向かい、そこで暮らしていたのでしょうか。この時代は、日本時代の樺太の産業について、対岸の街、稚内北星学園大学の学生がさぐります。

1905年に、日本領土となった南樺太。樺太に多くの人々が向かい始めたのはそれから10数年を経た1920年代、大正10年代です。1922(大正11年)、樺太への玄関口、稚内まで鉄道が到達します。
宗谷線の全通です。稚内の停車場が開設され函館と稚内を結ぶ北海道南北縦貫鉄道が完成しました。これにより宗谷線から乗り換えて、稚内から樺太に向かうことが可能になり、翌年に稚内と大泊の東海岸を結ぶ稚泊航路が鉄道省により開設されました。さらに、稚内と本斗の西海岸を結ぶ稚斗航路が1924(大正13年)に、北日本汽船によって開設されました。

航路も開設された樺太には、多くの人々がわたり、社会基盤の整備が進んでいきました。最盛期には40万人の人々が暮らしていたといいます。人々の仕事や暮らしを支える産業は、どのように発展していったのか。

私達は、2021年8月24日稚内市樺太記念館で樺太について学ぶ機会を得ました。さらに1930年代に制作された「産業の樺太」や、サハリンSTS制作の「樺太―日本統治時代のサハリン」により、樺太にどんな産業が育っていったのか、調べてみました。

当初から基幹産業となった漁業

明治末期日本が樺太全島を占領してからは漁業が基幹産業でした。中心はニシン漁や鮭・マス漁でした。特にニシン漁は、大人数で歌い叫びながら網をひくその元気あふれる様子はその時代の活気が今よりも盛大であったことがわかります。船いっぱいに乗せたニシンは食料品と肥料になりました(産業の樺太 4/6 0:30付近)。

農業ではコメがとれないため、主に麦が栽培されました。他にはデンプンの材料として馬鈴薯などが栽培されました。その肥料にニシンが使われました。

牧畜業や狐の飼育

また、牧畜業(樺太ー日本統治時代のサハリン 3/6 2:09)では、日本人は羊よりも魚の方が好きだったため羊肉には興味を持たず、羊の飼育は発展しませんでした。ヤギも同様でした。ウサギは肉を食べたり、狐の餌に使いました。半分以上の農民が鶏を所有していました。その多くがガチョウ・アヒル・七面鳥を飼っていました。


特に樺太では狐の飼育が登場しました。樺太政府初の狐の飼育は1909年のことでした。日本では樺太産の狐の毛皮は最も高級なものとされていました。
しかし、現在のサハリンには毛皮獣飼育業は一つも残っていません。

バターも名産品に:食品加工業


次に食品加工業(樺太ー日本統治時代のサハリン 3/6 4:22)では1925年以来樺太府が牛の飼育を奨励した結果、酪農と乳製品加工業が急速に発達しました。こうして南サハリン最初のバターを製造しましたが、協同組合によるバター製造と販売は別の機関により行われたため、製品と包装がバラバラでした。その後協同組は合統一され、高名な樺太バターは日本で生産された高品質商品として好評でした。国内大手の明治乳業は1937年に樺太バターの名で商品を出していました(明治乳業のバター/マーガリンのページに、樺太バターのパッケージが紹介されています)。


他には寒天工場があり、アジアやヨーロッパに輸出されました。
食品加工工場は数多くあり、精米工場、酒工場、アルコール醸造工場、味噌や醤油工場、デンプン工場、製油工場、製粉工場、製パン工場、乾パン工場、製菓工場、石鹸工場、皮革工場、酸素工場、冬季工場、砂糖工場がありました。
砂糖は砂糖大根を樺太で育てましたが、手間がかかり消えゆくことになりました。

森林開発とパルプ工業

その後大正に入ると森林資源の開発が進み、パルプ工業が基幹産業として成長しました。樺太の針葉樹林がパルプ生産に適していることがわかり、各地に相次いでパルプ工業が建設されました。
1933年(昭和8年)には、王子製紙・樺太工業・富士製紙の三大製紙会社が合併し巨大化した王子製紙は「大王子」と呼ばれ、樺太のパルプは日本の供給量の80%を占めました。
林業​​(産業の樺太 3/6 https://www.youtube.com/watch?v=5MZi6SibyBw&t=1s 1:00)では山火事を防ぐために樺太山火隊が結成されました。材木は雪解けの水とともに一度に川を下りました。多くは船で内地の市場へ運ばれました。そして製紙の材料として使われます。パルプ工業は帝国の発展に大いに貢献しました。

鉱工業

パルプ工場は石炭を燃料としていたため、昭和を迎えると鉱工業の都市として急速に発展して行きました。(産業の樺太 5/6 https://www.youtube.com/watch?v=GkmuX9sOpuw 0:50)樺太全土は石炭の島といっても過言でなくその埋蔵推計量は20億トンと称せられました。製銑させられた石炭は燃料としてパルプ工場、鉄道、その他一般家庭用、または内地・朝鮮・香港等に送られ、排出量は150万トンに及びました。

まとめ

この記事では、かつての樺太の産業の状況から、日本の人々が樺太に向かっていった背景をさぐりました。満洲のように国側が強制的に移住させなくても、多くの人に憧れを抱かせた樺太。そんな樺太には本土にはない産業であったり、試行錯誤で新しい産業を発展させようとしていたことがわかりました。特に狐の毛皮は今となっては大変珍しいですが、当時寒い樺太では誰もが毛皮を要する防寒具を使っていたと思われるので、その中で何の毛皮かはステータスになっていたのではないかと推察します。また別の考え方もできて面白いと思いました。
結果として人々が平和に暮らしていた樺太は、1945年8月8日ソ連が対日宣戦布告後、9日にソ連軍が樺太に侵攻しました。8月14日ポツダム宣言を受諾しました。8月13日から23日までの樺太住民の緊急疎開で約7万5000人の避難民の9割が稚内の北防波堤ドームに上陸しました。
現在、私達が暮らす、稚内公園には氷雪の門こと樺太島民慰霊碑と九人の乙女の碑が建てられており、樺太出身者はここで対岸にある故郷に思いをはせました。九人の乙女のような勇敢な女性の命が失われたこと、敵に殺されるよりも服毒自決を選ぶ残酷な戦時下、戦争を知らない自分ですが同じことが繰り返されないように平和を保つことがいかに重要なのか思い知らされました。

(池澤/2021年8月)

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