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こだわる

過日、通夜が行われない葬儀のケースが増えているらしいという話をした。ある葬儀で大手葬儀社で通夜をやらないケースがあるのかを聞いてみた。すると接触が増えることを恐れて参列させないために通夜をやめるケースがあるとのこと。さらに、通夜をやらないと何か経費上浮くのか?を聞くと・・接待費すなわち飲食があれば、増えるが基本増加しないとのこと。

となると、通夜は家族や親族のためのものではなくやはり世間体という解釈でできていると考えられる。現実に茂原の妙光寺でのテンプルモーニングで参加者は村の方々の目線があり、簡略化はしないだろうと話した。個人的には、喪にたいする時間を軽くみているのかな?とも感じる。一方で自身はどんな葬送でもよいと思っていた方が、先に亡くなった妻を送るときは、通夜・葬儀をおこない。気持ちがすっきりしたとのことであった。

過日、通夜の省略は弔うの時間をへらし、葬るすなわち遺体処理の部分の重視と述べた。もしこれを安易に寺院側が容認すると、通夜とは世間体という世俗の考えを容認したとも言えないだろうか?人が来ないから通夜をしないというのは何かを失っていると違和感を感じている。

通夜の省略化はおそらく社会の要請ではあるだろう。時間を省略し、手間暇をかけないという考えは、この三十年近く葬儀を行ってきた立場からみるとよくわかる。

僧侶なりたての頃は、葬儀は故人の地区の方はみな有給休暇を用いて、講中付き合いを行った。男性は辻斬りや四本旗をつくり、墓を開けたりした。女性は通夜・葬儀の食事づくり、僧侶はさくせされた旗に字を書き、お骨の下に敷く地取りなどがあった。

葬送のコミュニティに関しては、

が古えの形をつたえてくれているが…コミュニティが極めて大切なのがわかる。

火葬場に斎場が併設され自宅で葬儀がなくなり講中もほぼ消滅、葬儀業社が行うようになった。それによりサラリーマンは有給休暇をつかわなくなり、女性のお手伝いもなくなった。

古来の葬儀も変化してきた。初七日も葬式中になってコンパクト化は確かにあったが…通夜を無くすは衝撃的だと感じる。

感じるのは「蟻の一穴」ではないのか?ということである。これを辞めるとは、恐らくだが、すべての葬儀儀式不要につながるのではないだろうか?寺院としては問題だが、時間どろぼうにどれだけ時間を取られるのだろうか?

さて、昨日本休寺でテンプルモーニングを行ったが、参加者は私一人。それでも掃除をし、お経を読み、お茶をする。一人でもできる。通夜も会場があれば会場で、会場がないなら寺院で回向を行えばよい。人がいなくても、故人の霊魂はいるとも言えないだろうか?もしいないなら引導文も霊山浄土も詭弁とならないか?大真面目に考えるべき問題だと思う。

そんなことを考えている時、

を思い出した。松原泰道師は参列者がいなくても説法するだからこそ本物なのであろう。とすれば、我々僧侶も参列者がなくても通夜をするべきだと感じ始めている。

諸行無常は確かにそうだが、この点は時間の共有や霊魂の存在まで考えれば、安易にあきらめてよいことには思えない。出来得る限りの豆さと努力、通夜、葬儀の価値を高める努力をしたいと思う。





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