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生来、天邪鬼でものごとを斜めに見てしまうところがあり、皆さんが右というと左と言ってしまったりする。また、比較的初対面?いや複数でも怖いと言われたりもする。不徳の致すところだが、なかなか改正できていない。

そんな中、今朝読んでいた『命ある限り歩き続ける』

は考え深い。ほぼ毎朝聞いているラジオ法話の横田南嶺老師と作家の五木寛之さんの対談だ。ラジオの中でも何回か触れられていた本書。軽くページを開いたら、引き込まれて読んでいた。

五木寛之さんは43頁で「生老病死」ではなく、「生老病痴」が四苦であると述べています。 認痴症の問題は確かにあるなーと感じます。

円覚寺にもおられた夢窓国師は「縁のなき人に縁を結んでいくのがわれわれの務めだ」と、はっきり言っておられます。「縁なき人に新たな善き縁を結ぶように努力をするために私たちはある」と。
夢窓国師は寺の役割には三つあると言われています。第一は教えを説くこと、第ニは人を集めること、第三は環境を整えること、と。この言葉に私は感銘を受けたのです。教えを説くということを第一にしているのは当然ですけれども、二番目に人を集めるということが大事だと。(68〜69頁)

 この考えは特に2の考えを重視されています。個人的には2の観点はあまり重視してきませんでした。H(法話)1グランプリなどは、個人的には好きではありません。

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人柄であろうと投票行為を行うのは、ブッダの精神とあうのだろうかと考えてきたからです。ブッダは、出家順で席を決めています。能力や人格での席順を決めていません。それで決めると好き嫌いや欲望が生まれることを恐れたと考えられます。故に、個人的にはブッダが生きていたら肯定しないだろうと考えてきました。

しかし、布教や寺の役割と考えるとするならば、一考が必要かもしれません。(だからと言って私が参加するとかは考えられない。多様性と考えるべきなのかな?といった感じですが…)

個人的には、結果を求めるではなく、なすべきことをなす。その後に結果がくればよいなーという感じなので違和感はありますが…


五木 誰かがどこかでお書きになっていましたけれども、仏教というのは、一顔、二声、三姿なんだと。
横田 亡くなられた大井際断老師ですね。このかたは百三歳でお亡くなりになった臨済宗方広寺派の管長さんですが、お坊さんは声と顔と姿だと説いておられました。(118頁)

これは3点すべてに自信ない、私としては反省しかありません。少しでも人柄を育てるが必要だなと感じます。

ところで本書で面白いのは、宿業へのアプローチです。

横田 ある仏教国の高僧が震災で多くの命が失われるようなことは、自然現象やいろんな原因もあるけれども、宿業によるものだとおっしゃって、地元の人たちが愕然としたという話を聞いたことがあります。その高僧は決して被災者の皆さんを傷つけるつもりはなく、その国ではそういう出来事は何かの業縁があって遭遇するという考えが一般的なのでしょう。(155頁)

これは共業論であり、仙台でダライ・ラマが述べた内容を示したものと思われます。この点は下記の「震災天罰論をめぐって」で触れたことがあります。私個人としてもあまりよい発言とは感じていましたので、否定的に扱っていますが…

さて、個人的には宿業を悪い意味で捉えていましたが、本書を読むことで必ずしも悪い意味だけではない。自分の今のあり方も宿業による部分もあるなと考え直す部分もあります。幼いころ貧乏だったことも、父が学者を目指し努力する姿を見ていたことも…宿業の一端だと考えればまた見方が変わります。

まだ読みかけですが、個人的には考えることが沢山ありそうな一冊です。

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