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『キレイ』

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『穢れて、穢れて、私はキレイ』

昔見た舞台にこんなセリフがあった。

子供の頃、数人の誘拐グループに監禁され身代金を要求するが支払われず数年間にわたり監禁生活を送った少女の話だ。

少女はそこで『神様』に出会う。

そして神様は言う。

「ここにいる間は何をしても穢れることはない。
ただしここから外に出ればここで穢れた分も含めもれなく穢れる」

その神様は少女にしか見えない。

監禁生活が続くうちに誘拐犯の中の1人と肉体関係を持ってしまう。

監禁生活には娯楽がないからだ。

もちろん性の知識もないまま。

そして時が経ち少女はその監禁場所から逃げ出し監禁されてる間の記憶を失い外へ出る。

初めて見る空。

初めて見る大地。

そして初めて見る人間。

その時世界は戦時中。

そしてその世界では食用としても食べれる人間型のアンドロイドが兵士だ。

その死体を加工して缶詰業者に売る仕事をし生き抜く。

そして戦争が終わると仕事がなくなり身体を売って生計をたてていく。

そして少女だった彼女は穢れながら大人になっていく。

そして最後に監禁されていた時の記憶が蘇り少女の時にすでに穢れていたことに気付く。

そしてその穢れに耐えきれずもう1人の自分を作っていた事を。

そしてその忘れていたもう1人の自分と向き合う。

子供の頃受け入れられなかった穢れを大人になり理解し、そして幼かった頃その穢れを一身に引き受けたもう1人の自分を抱きしめるために。

お互いに起こった事の答え合わせをするために。


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『キレイは汚い、汚いはキレイ』

シェイクスピアの『マクベス』で3人の魔女の冒頭の台詞。

魔女にとってキレイなものは善人にとっては汚いものであり、善人にとってはキレイなものは魔女にとって汚い。

『きれいと汚い』『美と醜』『善と悪』といった二元論は互いに表裏一体の関係にある相対的な概念であり人はそのどちらかをそれぞれの人の立場によって感じる。

1人の人間の人生の中でもそうした互いに対立する二つの対極的な概念は様々な経験や成長、新たな解釈が加わることにより逆転したりする不確かなものでもある。

昔は嫌いだったもの、汚いと思っていたものが自分の知識が増えたり、深く知る事により好きになったり、キレイに思えたりすることがある。

そしてその思想や概念は人生の中で常に揺れ動き、その人の人生全体を豊かに彩っていく要素でもある。

そしてもう一つ『きれい=汚い、汚い=きれい』という一元論の解釈もできる。

それぞれの立場や状況は関係なく相対的なものが別々ではなく一つと言う考え方だ。

陰陽図のように相反するものを合わせて一つというもの。

次にこの台詞の原文を見てみよう。

『Fair is foul, and foul is fair.』

fairとfoul という単語はそれぞれ文脈に応じて様々な意味を表す単語として用いられる多義的な言葉である。

日本語の訳語についても「きれいは汚い、汚いはきれい」という有名な訳の他に「良いことは悪いこと、悪いことは良いこと」などとも訳せる。

このように訳せばマクベスの人生の栄華と凋落を暗示させる予言となる。

一つ目はきれいと汚い、美と醜、善と悪など相対的な二元論の概念。

二つ目はきれいと汚い、美と醜、善と悪など相対的なものを2つ合わせて1つという一元論。

そして三つ目は物語の流れの中で起こる出来事の暗示や予言という解釈。

一元論と二元論は一先ず置いといて三つ目を考えてみる。

この三つ目には時間が深く関わっている。

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3人の魔女は冒頭にマクベスの未来を予言する。

そして物語の中の時間が進み予言は当たる。

一般的に時間の概念は「宇宙は137億年前に始まって今に至る」っていうように過去から現在、そして未来へと進んでいくと考えている。

これを『直線的時間』と呼ぶ。

歴史の流れの中に自分の今があると言う感覚。

時間にはもう一つベルクソンという哲学者が提唱した『純粋持続』というものがある。

そしてこの『純粋持続』では時間は流れない。

ある意味で永遠。

永遠というのは途方もない長さの時間のことを言うのではなくて時間を超えた時間のことを言う。

『時間の流れを感じ取っている側の時間』

『マクベス』の魔女の台詞が予言であるならばマクベスの人生を時間を超えた目線で見ていると言うことになる。

そして『マクベス』という舞台の脚本を書いたシェイクスピアの目線でもあり、舞台を見たあとの観客の目線でもある。

作者はもちろん舞台を一度見た観客は物語の流れを知っている。

そして舞台を見た後に物語の全体の感想として面白かったとかつまらなかったなどと考える。

つまり人間の意識の中には流れている時間を一気に把持できる意識があるがその意識自体には時間がないということだ。

そしてその場所にこそ人間にとってのほんとう時間がある可能性があると言うのだ。

時間の流れが一方向で過去、現在、未来を結ぶ直線の中であるならその中に入ってしまえば直線自体は見えない。

そして人間は『直線的時間』の中で生きている。

『直線的時間』にいるという事は主観的には現在の繰り返ししか認識できない。

次々に新しい現在がやってきては古い現在になっていく。

したがって瞬間としての現在には前後の現在を感じ取る能力はない。

しかし人は過去を思い出したり、未来を予想する事ができる。

過ぎ去った古い現在を同時に認識する事ができるのだ。

では一瞬でしかない現在の連続という時間をどのように同時に認識してるのか。

それは『記憶』だ。

次々過ぎ去っていく現在を『記憶』というファイルに保存しておいて必要な時に必要な過ぎ去った現在を再構築して観測している。

物語もその物語に関する古い現在を集めて再構築しどんな物語だったのかを認識しているのだ。

そしてそれを『純粋持続』と呼びそれが『精神の働き』いわゆる思考なのではないかと言うのだ。

とするともしかしたら科学目線の『直線的時間』は外の世界にあり『純粋持続』は自分の中にあるということになるのではないだろうか。

直線的な時間の中で生きていながら記憶によって客観的に時間を見ることができるというのは外の世界と内の世界を同時に生きているということなのかもしれない。

そして外の世界と内の世界は物質世界と精神世界にあたる。

我々の目に見えている世界が物質世界。

そして外の世界を記憶により再構築した世界が精神世界ということになる。

ここで問題なのは卵が先か鶏が先かと同じく物質世界と精神世界どちらが先にできたのだろう。

そもそも物質世界と精神世界はどのようにできたのだろうか。

古代人は時間を霊と考えていた。

現代人は時間と空間の中に人間が生きていると思っているが古代人たちは時間と空間として人間は生きていると思ってた。

要するに現代は『時間と空間』と『人』を分けて考えているが古代人は『時間と空間』も『人』も同じものと考えていたのだ。

そしてその霊というエネルギーのようなものから全てが生まれた=精神世界から物質世界が生まれたというふうに考えていた。

では精神からどうやって物質が生まれるのか。

そもそも精神世界とはどういうものなのか。

ライプニッツという哲学者は精神とは物質をどんどん分割していくと、もうこれ以上分割不可能なところに現れると定義した。

そしてその現れた精神を霊魂と呼び霊魂は物質の一番根底に収縮して入っていると考えた。

さらにドゥルーズという哲学者は物質の一番根底に精神という霊魂があるのならば逆に精神からどうやって物質が作り出されてくるのかということを考えた。


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現代物理学も同じような世界がある。

量子力学だ。

素粒子は観測していないときは確率の波のようなもので、観測したときに初めて現れるという不思議な存在だということ。

現代科学は物質の根底は波のようなもので物質ではないという答えに辿り着き、物質のような捉え方で素粒子は理解することができないということが分かった。

物質であれば3次元認識で把握できる。

でも素粒子はできない。

数学的にもそうだ。

素粒子の世界は複素数でしか表せない。

虚数が混じってる。

実数じゃない。

だから現実的なものとしては表現できない。


素粒子が意識と何らかの形で繋がっているというのは物理学者たちも気づいているがそれが何かはわかっていない。

ライプニッツが言う霊魂=素粒子なのではないかと考えてしまう。

意識の介入によって波のようなものが物質に変化するのであれば古の人たちが考えていた精神から物質が生まれるというのはありえる話だ。

しかし観察者の意識によって波のようなものが物質に変わるといっても観察者が狙って物質にしているわけではない。

なぜならその原理は観察者自身もわかっていないからだ。

確定していない波のようなものが観察者の意識によって物質になるのならどんな物質でも作れるということになる。

しかしどんな物質になるのかは決められない。

という事は意識が関わってるといってもそれは無意識の部分が影響を与えてるということになる。

では無意識とはなんなのか。

まさしくそれが内なる世界であり精神世界そのものではないだろうか。

そしてユングは無意識の層に集合的意識があるという。

人間全てがこの無意識の層で繋がっているというのだ。

という事は無意識の世界には他者がいる。

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プラトンの『饗宴』ではアンドロギュノスが登場する。

人間はもともと自己と他者が背中合わせでくっついた一つの生き物だった。

人間があまりに強大になりすぎたので、恐れた神はこのアンドロギュノスだった人間を二つに切り裂いて引き離してしまう。

それによって人間は自分の欠けた半身を求めるようになりそこに『愛』が生まれたというのだ。

これを『愛の起源の話』としている。

愛とは二つに分かれたものが一つになるということになるし、失った半身を見つける指針とも取れる。

相反する二元性のものの融合でもある。

子供の頃からオカルトが好きだったがもともと『オカルト』の語源とは『隠されたもの』という意味だ。

そして宇宙の真理のことを意味する。

『隠れたもの』ではなく『隠されたもの』

そう。

宇宙の真理は隠されたのだ。

とすると失われた古代の文明や思想の中にヒントや答えがあるのかもしれない。

『失われた』ではなく『隠された』のかもしれないのだから。

そしてその真理で重要なものの一つが『対立物の一致』

まさに相反するものが一つになること。

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そして人間において一番の対立物とは何か。

『自己存在と他者存在』

哲学において根底にあるのはこの自己他者問題であり、オカルティズムの根本とはこの自己と他者の霊的合一の謎を解明することにあるのではないのかと言われている。

そもそも現代人はなかなか他者と繋がれなくなってきてるように思える。

多かれ少なかれ誰もが心の中に孤独感を持ちながら生きているように思える。

他者と繋がるどころか自分の心までもが分裂しかかってる人も多いのではないか?

自分の心とは裏腹な行動をとってしまう矛盾した二元性。

LGBTにも通じる自分の身体への違和感など。

まるで半分になった人間が再び強大になり恐れた神がさらに半分に引き裂こうとしてるかのように。

現代社会にはいろんなモノや情報、価値が溢れかえっていて少し手を伸ばせば手軽に手に入るものが多くなった。

しかし簡単に手に入ってしまうからこそ、その情報の真偽やものの価値が低下してしまうし、なんでも簡単に手に入ってしまうために1人で完結してしまう事が多い。

今手にしているもの、今欲しいと思っているものは本当に必要なものなのか?

もしかしたら人間が本当に求めているのは失われた「半身」なのではないだろうか。

では失われた『半身』とはなんだろう。

二つに繋がったものが分かれたのだからその『半身』も肉体を持っている。

その半身も肉体を持っている以上他者にあたる。

やはり自己と他者の問題が重要になる。

そして『半身』と一つになるには物理的に身体がくっつかないので自己と他者の霊的合一が必要になってくる。

心と心で繋がるというレベルではなく霊と霊が繋がる。

先程、無意識の世界には他者がいるという話をした。

自己と他者の霊的合一というのは無意識の中にいる他者と繋がるということにはならないだろうか?

さて哲学者ドゥルーズは精神から物質がどのように作られたと考えたのか。

ライプニッツは物質をどんどん細かくしてゆきこれ以上割れないというところで精神が現れると考えた。

そしてベルクソンは『純粋持続』こそほんとうの時間であり精神=霊魂と定義した。

『純粋持続』とはストックしておいた過ぎた現在、いわゆる過去の中からその時に必要なものを取り出し再構築してその全体図を見る。

記憶を繋げて過去を思い出したり、その過去から分析して未来を予測したりしている思考。

そして記憶からどの場面を取り出すかは無意識に行なっている。

昨日の昼ごはんを思い出すとしたら記憶からどのファイルからどの情報を引き出そうかと考えて引き出さない。

「昨日の昼何食べたっけ?」って考えてすぐパッと思い浮かぶ。

このように何かを考える時に必要な情報を取り出す作業は無意識の領域なのだ。

そしてその無意識の領域が素粒子という霊魂に影響を与えると言う事になるのではないだろうか。

そして無意識には他者がいるとしたら。

その無意識の世界には全ての人がいるとしたら。

素粒子を物質化しているのは人類全体の想いという事になるのかもしれない。


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冒頭で話した舞台の物語は苦しみから逃げ出すためにもう1人の自分を作り出しその苦しみを背負せ逃げた少女の話だった。

もし背中合わせにくっついていた人間が二つに引き裂かれていたとして。

半身の人間が再びさらに半分に引き裂かれたのだとしたら。

他者との霊的合一への道はさらに遠ざかってしまう。

しかし穢れることはいけないことなのだろうか?

『きれい=汚い、汚い=きれい』というのは汚いという事がなんなのかわからなければほんとうのきれいはわからないという意味なのではないだろうか。

純粋無垢な子はきれいなのではなく無知なのではないかと思う。

なぜなら穢れを知らない限りいつか穢れてしまう可能性があるのだから。

幼い頃の穢れを引き受けた『私』と穢れながら大人になった『私』

2人の『私』は再び会って答え合わせをする。

幼い頃何があったのか。

どのような経験をして大人になったのか。

そして2人の『私』は1人の『私』に戻る。

私は『穢れて穢れてきれい』になる。

分裂した自我が一つになったとき探していた自分の半身が見つかるのかもしれない。

二つに分かれた私が一つになり、一つになった私が太古の昔に引き裂かれた半身に出会う物語。

もしかしたら3人の魔女とは意識の領域の『私』と無意識の領域の『私』その二つが融合した『私』という3人の『私』なのかもしれない。

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