見出し画像

声の効能

ここ一ヶ月ほど、会社の同僚以外と会話していない。私は雑談は苦手だが対話は好きで、私の考えや見聞きしたことを受けた相手がどう感じたかを知りたいし、その逆も然りだ。しかし同僚の多くは、話題を振ってるように見えてその実は言及したいだけで、広げも掘り下げもするつもりはなく、こちらには感想ではなく共感を求めているだけなのが透けて見えてしまう。(池袋暴走事故があったとき、運転手が逮捕されない!納得いかない!と熱が込もり気味な同僚に、逮捕されない理由を説明したら不満そうに黙りこくられたことがあった)でもそもそも雑談とはそういうもの…と思いはするものの、ちょっぴりげんなりしている。みんなで笑って明るく振る舞うように努めて、社内の雰囲気を明るく保とうとする気風にもげんなりしている。この「げんなり」が日々着実に積もり積もって、今や立派なげんなり山脈ができた。平日の間はずっと、山脈がメンタルを包囲している。出社が憂鬱だ。困った。

ステイホームがすっかり世の中に定着して、SNSを覗けば多くの人がオンラインテレビ通話で交流している。その様を目にして、私には人と会いたい欲求が希薄であると、まざまざと自覚することになった。たとえ私の身に大事が降りかかっても、支えてくれたり心配してくれる誰かがそばにいないことの心細さより、誰も巻き込まずに済む気楽さのほうが何馬身も差をつけて圧勝する。誰にも心配も迷惑も掛けていない、その事実が心の波風の防波堤になってくれる。この考え方はきっと寂しい。でもこの寂しさを、人との交流で埋めたい欲求もない。誰かがいなくても平気だ。それもまた寂しいなとも思う。

三ヶ月に一度、歯科の定期検診を受けている。その歯科にはお世話になってもう10年ほど経つ。主治医さんは鷹揚でのほほんとしたおじいちゃんだ。都心のドドドド真ん中に診療所を構えているとはとても思えないくらいにゆったりしている。しれっとウン万円するインプラント施術を勧めてくる茶目っ気があって、三ヶ月に一度しか会ってないのにマイナーチェンジ程度の散髪にもいつも気づいてくれる。衛生士の方々も、おじいちゃん先生の薫陶を受けてか穏やかで優しい人ばかりだ。

先週もいつものように検診を受ける予定だった。しかしこの情勢だしお互いのためにも、と思いキャンセルの電話を入れることにした。仕事終わりにスマホを点けると、歯科からの着信履歴があった。折り返すと、キャンセルするかどうかの伺いの電話だった。衛生士のおねえさん(いつも私の歯をピカピカにホワイトニングしてくれる)にキャンセルの旨を伝えると、「あ、待ってください!今先生に代わりますね」とおじいちゃん先生が電話に出られて「ごめんね〜〜〜〜〜検診直前にこんな電話して。大変だけどね、ヲキさんも体に気をつけてね」と、いつもののんびりした口調で声を掛けてくれた。私のことをわずかでも気にかけてくれる人の声音を、久々に聞けた気がして、ひどく安心して心の強張りがふっと解けた。えっ 声ってすごい。先生も、どうかお体に気をつけて、事態が落ち着いたら、私からまた予約の電話いれますね、と返して電話を終えた。このときの私の声音も、この日一番優しい音が出ていた気がする。出そうと意識して出るものではない。この先、どれだけの人にこの声音を発せられるだろう。

声から貰える安心感に味を占めた私は、ほぼ勢いで、ちょっと緊張しながら1年ぶりに友人のグループLINEに浮上してオンライン飲み会を提案した。ものの5分で承諾が取れて、映画を同時上映しがてらの鑑賞会スタイルにする運びになった。誘ってくれてありがとう、楽しみができた、と言ってもらえた。くだらないやりとりとネタスタンプの応酬にふふっとなった。私は話の中身や言葉選びばかり気にして、血の通った声そのものに宿るエネルギーを見逃してきたかもしれない。中身の有無を問わず話せる友人たちの声を、たっぷりいただこうと思った。