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そこに在る寂しさ

一週間分のおかえりモネを一気見するのが週末の楽しみになっている。今週(第23週)はなんといっても、新次が妻・美波の死亡届に意を決して判を捺すシーンに息をとめて見入ってしまった。私がおかえりモネで一番心を揺さぶられたのは、第39回で新次が「嬉しいことがあっても話す相手(美波)がいない」と涙しながら吐露したシーンだ。浅野忠信の凄まじい演技で露わとなった、新次が震災からずっと抱えてきた寂しさに、こちらまで身を切られるようだった。あのシーンはこの先もずっと忘れられないと思う。

どれだけ身も心も鍛え上げてタフになったつもりでいても、寂しさにだけはどう足掻いても敵うものではないと私は思っている。むしろ「信じている」に寄っているかもしれない。一人一人の抱える寂しさの色形は様々だ。だから共感し合うことも難しい。本人が「これはトゲトゲしてて青くてめちゃくちゃ重い」と言ったとしても、他人からは一見すると丸みがあり黄色く軽そうな寂しさもきっとある。自分からはそう見えたからと一方的な感触だけを頼りに相手の抱える寂しさの扱い方を決めてしまうと、相手との関係は拗れる。だが寂しさを見せ合わないことには、関係性の進展も難しいと思う。

私が寂しさを感じる瞬間は、決まって人といるときだ。「今この時この場に私という意思は必要なく、いないものとされている」と相手の言動から読み取れたときに寂しさゲージがMAXになり、一刻も早く一人になりたくなる。

先月、気持ちのすれ違いが原因で、ある日を境に2年近く連絡を絶っていた友人と電話越しに再会を果たした。付き合いの長い友人だったから、関係を絶ってから1年程の間は味わったことのない喪失感と寂しさをすっかり持て余していた。どうにかこの寂しさの正体を明かして、あの日から動いてくれない時計の針を進めたい一心で、正体を掴む手がかりになりそうな言葉を求めて本を読み、信頼の置ける人と話し、胸に湧いた気持ちを思い思いに手帳に書き散らした。そうして日々を過ごすうちに、少しずつなんとか立ち直ることができた。

対して友人はというと、同様に私と離れたことに寂しさを抱えていたそうだが、人との出会いや交流を求めることで寂しさを埋めようとしたそうだ。だが立ち直れはしなかったと話してくれた。

私は寂しさを埋めることを目的に行動を起こすことはしない。寂しいときは寂しいままでいる方が自分には無理がなく合っていると、あの1年間で分かったからだ。だから友人の気持ちに100%共感はできない(もちろん本人にわざわざそんなことは伝えない)。だが共感できるか否かは重要ではないと思っている。私にとってここで何より大事なのは、どんな時に寂しさを抱えるのか、それはどんな色形をしているのかを友人が私に示してくれた事実だ。示してくれた以上、私はそれを無視できない。それが在るものとして、私は友人と今後の関係を続けていく。直に会う約束もできた。会えるのを心から楽しみにしている。

ところでおかえりモネも来週が最終週となってしまった…既にもう寂しい…