短歌/エール/どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどど

 知り合いがネットに短歌を書いていた。十数首の小品だった。それを見かけて、なんだかんだ言いながら創作の熾火を絶やさずにいられるその人がすさまじいと思った。私なんかは燃えさしだと危ないのですぐに冷ましてしまうから。


 私の通っていた大学に「〇大短歌会」みたいなサークルがあって、一度だけお試しで行ったことがある。twitterを中心にしてエモい短歌が流行りはじめていた時期だった。北海道の歌人では山田航が有名で、彼の手になる「桜前線開架宣言」という本には、若人の言葉遊びみたいな短歌がたくさん並んでいて、私も読んだおぼえがある。これくらいなら俺もひとつふたつと、いそいそ短歌会の会合とやらに足を向けたわけである。

 その日は歌会を催しているという。各人が一首ずつ持ち寄って、それぞれ寸評してゆくという形式らしい。みんな何か一首を用意しているみたいだった。飛び入りで参加した私には手持ちがなかった。といって、ほかの人のを評価するだけじゃつまらないので、せっかくだからと即興で作った。憶えやすいので今でも思い出せる。

 どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどど童貞ちゃうわ!

 そんな一首を手渡された紙に書いて、さあ評価の時間だ。大学生の集まりらしく、就活や卒論の歌がちらほら。一首に対して、みなけっこうまじめに読解している。私は新入りということもあり偉そうに何か言うのもはばかられて、黙しがちになった。

 私の番になった。自分の歌は自分で読み上げなきゃいけないらしい。それを先に言ってくれよ。知ってたらもうすこし人前で読みあげやすい短歌を書いていた。

 どどどどどど、と繰り返していると噛んだ。もう一回行きます。咳払いする。どどどどどどど…(略)…どどどどどど童貞ちゃうわ。読み上げた。しん、となった。冬みたいだ。滑った、と思った。スキーでもしてる? 
 君は童貞なの? 会長らしき人が訊いてきた。こうなったら背水の陣だ。私は大声で溌溂と答えた。童貞です!!!! 何人かが笑った。致命傷で済んだ。

 ほかの歌と同じく批評は丁寧に行われた。あの、悪ふざけです、とは言い出せなかった。しょしょしょしょしょ、でもいいかもしれないというアドバイスがあった。最後は「処女ちゃうわ」にしてさ。なるほどですね。私は肯った。あ、でもそうしたら語呂が悪くなるか。確かにですね。私は肯った。ちょっとワンパターンだよね。そうですね。私は肯った。「ど」の連続から「童」につなげるのはすこし硬いかも。そうですね。私は肯った。でも平仮名で「どうてい」だと弱いよな。そうなんですよね。私は肯った。勢いは好きだよ。ありがとうございます。私はお辞儀した。何の時間?

 私はふたたび短歌会に行くことはなかった。

 ともあれ、他人の短歌に触れるのはそれなりに楽しくて、その火にあてられて私は下手の横好きとばかりにいくつか短歌を書き始めた。短歌会とは別の小説を主とした文芸サークルがあって、私は当時そこに所属していた。まあ畑違いは否めないが短歌だって文芸だ。童貞短歌、みたいなシリーズを発表した。柿本人麿の「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」という和歌をそっくりそのまま引用したら、これはどうかと思う、と怒られた。私は短歌を作るのから足を洗った。

 文芸サークルには、ほかにも数名、詩歌を書いている人がいた。作るのはだめでも評価する方面なら! と私は思った。こちとら卒論で和歌について書いているんだよ。三十一文字の読解なら任せろ。そう勢い立った。

 あるとき後輩が短歌集をひとつ発表した。よっしゃ先輩の批評眼の見せ所だ。印象に残った一首、その上の句はもう憶えていない。下の句は憶えている。「何もないけど傘を開こう」という七七だった。私はこの箇所が好きで、「とても前向きでいいですね!」みたいに評した。するとほかのサークル員から、「いや、後ろ向きな歌だろ……。何もねえのに傘開いてんだから」と言われた。きょとんとしていると、作者直々のお言葉があった。「後ろ向きな歌です」だからぼくは短歌をやめた。ごまかすみたいに私は言った。批評ってのは自由だからさァ! 読みたい風に読むのが一番だと思うんだよねェ! みんなもさ! 思い思いに感想を言おうよ!! 後に続くものはなかった。じゃあ、後ろ向きな歌ということで……。

 私は、短歌を書くのも読むのも不得手というわけだった。和歌の卒論は書けばまあなんとかなるので単位が出たけど、これが修士などだったら中退ものだったろう。ぼろが出ないうちに詩歌の世界から逃れて正解だったかもしれない。

§ § §

 この前、映画「数分間のエールを」を観に行った。

 MV作りに熱心な高校生男子と、とある女性シンガーをめぐる物語。主人公の男子が歌手に、あなたのMVを作らせてください、と頼み込むところから物語が動き出す。

 主人公は、彼女の曲をもとにして、寝る間も惜しんで出来の良いMVをひとつ仕上げた。それをいそいそ見せにいく。すると、彼女からぴしゃりと言われる。ほんとうにあの歌聴いてくれた? 主人公が描いたMVは前向きな内容で、けれど彼女の歌詞に彼女なりに込めていたのは、挫折や失意だった。

 よくあることだと思う。伝えようとしたことばが自分の思うとおりに伝わらなかったり、相手の伝えようとしたことばを聞き違えてしまったり、そういうすれ違いが、「数分間のエールを」には苦しいくらいはっきり描かれていて、息が詰まった。

 私にだっておぼえがあった。ウケ狙いの短歌がウケなかったり、後ろ向きな短歌を前向きだって強情に言い張ったり。読み漏らされて、読み違えて、読み違えられて、読み漏らす。自分の真意がきちんと伝わらないことにやきもきしたのは幾たびか、相手の真意を掬いきれずに失望されたのは幾たびか。解釈は自由? それは半分、嘘。自由だけど何もかもOKというわけではない。書いていると相手に十全に伝わらない言葉遣いになってしまうし、読んでいると相手の気持ちを無視してしまう。書くのも読むのも難しい。歌だってそうなのだろう。「数分間のエールを」はクリエイターへのエールという形をとっているけれど、クリエイターではない私にも、届いた。自分なりに敷衍しながら解釈して、もしかしたらその解釈さえ間違っているのかもしれないけれど、それでも、良い映画だったと思う。思うくらいは真に自由だ。

§ § §

 長々と、わけのわからない文章を書いてきたけれど、つまるところは、言い訳なのだ。ふと見かけたその知り合いの短歌に対して、今から書く感想がいかに的外れでも許してくれよ、という弁明。和歌でいう序詞。次からが伝えたいことばだ。

 その知り合いの短歌は、至るところにこれみよがしな自嘲やあけすけな失望で満ち満ちていた。それでももしかしたら誰かに届くかもしれないといういじらしい一縷の希望があった。詩がオワコンだなんて嘯きながら、それでも詩にしがみついている姿勢が、私は好きだ。インターネットfeat.資本主義の世にあって、ことばだけで日の目を見るのは難しい。どこにも文学の椅子はないんだ。ないんだよ。そんなこと、相手だって百も承知だろう。椅子取りゲームで負けた私が観戦に徹しているみたいに、きみも観戦席に来ればいいのにと思う。ここなら何人分の椅子も用意されている。粗末な椅子が。もう創作意欲の火を消して、すこし涼もう。そう相手の手を取りたくなる。

 けれどそんな私の手を振り払うみたいに、短歌を新たにまた新たに書き下ろす。熾火はまだ絶えていない。己の作物をくだらないだとか汚いだとか形容するくせに、諦めていない熱がある。私がとうの昔に捨てた熱だ。三十一文字には収めきれない意志だ。好きなら何でもできるなんて嘘と言いつつ、好きなら何でもできると信じようとしている。終わりのない倍々ゲーム、競争社会を、生き抜こうとしている。当人は知らないだろうが、私はその人が書く文章が好きなのだった。底意地に輝く火が、その熱が。だからこうして得手勝手に感想文を書いている。

 返歌をしたくなった。私らしく引用で済ます。私は借り物の言葉で戦うのがいっとう得意なので。その人のむかし書いた短歌。あまりに以前の記憶だから、多少の異同は許してもらえるだろう。

 このままじゃいけないとゆう手さえ冷たい君は、君なら何処へ行く

 どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどこにでもいける

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