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エンジニアとしての背骨

始動

現在62歳。
新卒で入った金融機関。

『入社式には約1週間分の合宿が出来るくらいの着替え、荷物を準備をしてお集まり下さい。』


事情はよく呑み込めてはいなかったが、直前には一週間どころか半年近くの合宿に行くことになるらしいとの情報が入ってきた。

無事、入社式が終わった後、集合させられたのはホテル1階のエントランスホール。予想通り、大型バスが横付けされて、乗り込むことになった。

ほとんど拉致監禁状態でバスに押し込まれ、大阪から静岡へ向かうというアナウンスが流れた。走り出して、しばらくして上司にあたる人だろうか。
ガチャガシャ(マイクを取り出す音)ボン!ボン!ボン!(マイクをたたく音)

『ア、アー、ゴホン。
 え~、君たち48人はシステム本部電算課に配属が決まった。
 そして、今から君たちは静岡のコンピュータ学院の生徒だ。
 今からプログラミングを勉強してもらう。
 2年分のカリキュラムだが、卒業は半年先だ!』

事態がようやく、おぼろげながら呑み込めてきた。
まずは沼津市のあるマンションをほとんど借り上げたのであろう。
初顔合わせの48人を2人ずつの部屋に割り当てられた。
さて、ここからテストテストの地獄の寮生活が始まった。

私は某関西私立大学の文学部美学科を一留して卒業。
ゴリゴリの文学美青年の私がなぜコンピューター??
なぜ?なぜ?の疑問を頭に浮かべながら、
テスト勉強の疲れで寝落ちする毎日だった。

卒業時は38人。耳を揃えて10人が脱落した・・
エンジニア人生がスタートした。


一年後


当社電算システムのちょっと大きめの危機、課題があらわになってきた。
このままでは来月あたり、朝8:00からのオンラインシステムが立ち上がらない。


夜間バッチシステムで更新している履歴データのイケてない設計のおかげで
オンライン開始時間がズレこむ!オンラインが上がらないかも!ヤバい!
メッチャ、新聞を賑わすやつやん!


さて、私の出番だね。明智君!ふふっ!
電算内でも、いささかハミゴ気味だった、ちょっと変わり者の私は
日陰のコーナーでしこしこシステムチューンアップ案を考えたりしてた。

ノストラダムス張りに当システムの滅亡的危機を予言(?)していた
私にこの危機を打開せよ、とのミッションが与えられた。
『マジか!?だから前から言ってたのに?』
『ええぃ、黙れ!若造がぁ~!明日役員会で解決案を出すことになった。
 朝までに対応案を考えろ!』

かくして、カッターシャツの袖をまくり上げ、
女子社員にハイライト3箱と濃いめのコーヒーを頼んで、
開発室横のテープ保管庫に向かったのであった。
(デスクでタバコなんて、全然OKの時代だった。。。)

当時はコンソールに表示されたオープンリールテープの番号を目視し、
この保管庫からオペレーターが台車に取り出し、大型冷蔵庫のような
テープリーダーにガッチャンガッチャンかけていた時代。

このテープ倉庫の奥の奥。机が1コ置いてあるスペース。
ここが私の隠れ家。
2日酔いの度に午前中、『外出中』(どこへ?)と札をデスクにおいては、
ここで椅子を並べて爆睡する部屋。

ここに定規、鉛筆、それからオペレーターに取って来させた
両端に穴の空いたA3のコンピュータ用連続用紙を持ち込んだ。

もちろん、ウィンドウズもマウスも存在しない時代。
設計書もテンプレートというお絵描き物差しで手書きしていたのだ。

バッチチューンナップと言えども、そう難しくはない。
過去の全ての履歴データを毎晩毎晩更新対象としている
自体がおバカで、当日分、当月分、当年分、それ以前の
すみ分け、更新分けすればいいだけのハナシ。

しかし、システム全体の流れ、概要を
開発関係者みんなに理解してもらう必要があった。

システム再構築の巨大フローチャートを書き上げた。
急務だった。
時間がない!

夜中の12時。
誰もいない開発室にのそのそ出て行って仕上げにかかる。


A3用紙に細かく書いたフローチャート約40枚。
セロテープで貼り合わすとたたみ約一畳分。
一晩で消しゴム2個消滅。
呼吸すら忘れてるような超集中!


書き上げた!
朝日が昇ってから、早や数時間。

昼前から始め、翌朝のラジオ体操時に完成。

拍手をもらった。
便所で泣いた。
この経験はその後の自分の背骨となった。。。

そして、この4年後、フリーランスとなり、62歳まで続けた。


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