見出し画像

PERCHの聖月曜日 44日目

–––それはフリー・ジャズが提起していることではありませんか?
ケージ でもそれならば、そのことについて説明してくださらないと。みんなが私にいまやジャズはフリーだと、自由だと言います。ところが、私が聴くと必ず、観念と音楽的関係の世界に閉じ込められているように思えるのです。
–––フリー・ジャズにそれしかないわけではありませんが……。 ケージ たいていのジャズの曲で私が耳にするのは、会話に似た即興です。一人の音楽家がほかの音楽家に答える。だから各人は自分がやりたい演奏をするかわりに、できるだけうまく他の演奏に応えるためにのみ、耳をそばだてて他人の演奏を聴くのです。またフリー・ジャズと呼ばれているものはおそらく時計とリズムの周期性から自由になろうとしているのでしょう。ベースはもはやメトロノームの役割りを演じてはいない。でもその場合ですら、時間的なビートの感覚は依然として保たれています。ジャズは〈音楽〉の範疇に留まっているのです。
–––そういう場合もあります。しかしそこから遠ざかることもありますし……。 ケージ たぶんそうでしょう、でも数年前にシカゴでジャズのグループと係わったときの体験をお話したいですね。彼らが私の音楽に感心していると繰り返し聞かされていたので、その演奏に立ち合うことを承諾したんです。彼らは私に、演奏を聴いたあとで、私の気に入る方向に向かうために彼らがどうしたらいいと思うか言ってほしいと頼みました。彼らは舞台の上にかたまり、さっき話したような具合に演奏しました。互いに聴き合い応え合いだしたのです。まず、彼らがばらばらになって会場を動きまわることから始めれば、もっとうまくいくだろうと思いました。私は彼らに、互いに聴き合わないように忠告し、各人が独奏者のように、世界にたった一人でいるかのように演奏するように言いました。また特に次の点を注意しました。「たとえだれかが大きな音で演奏し始めるのを耳にしても、あなたがそれよりも大きな音で演奏する必要があるとは、絶対に考えないことです。」なにが起ころうと自立しているように繰り返し言ったのです。さてリハーサルではすべてが満足できる形で行われました。それは成功したフリー・ジャズと呼べるものでしたよ。そして彼らもこの結果にとても喜んでいました。ところが残念なことに聴衆を前にすると、聴衆のまわりを動きながら演奏しているのに、語り合い応答し合う習慣を再び取り戻してしまいました。すばやく自由になるということは、容易なことではありませんね。

ーーージョン・ケージ『小鳥たちのために』青山マミ訳,青土社,1982年,p173-172

Wall panel with garden urnsChinese, for European marketlate
18th century


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?