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PERCHの聖月曜日 39日目

友人について。–––まあ一度君自身を相手によく考えてみるがいい、もっとも親しい知人の間でさえ、どんなに感覚がちがうか、どんなに意見がわかれているかを、同じ意見でさえ君の友人の頭の中では君の頭の中とは、どんなにまるでちがった位置や強さをもっているかを、誤解や敵意ある離反へのきっかけが、どんなに多様に現れてくるかを。これらすべてのあとで、君は自分にいうだろう、あらゆるわれわれの同盟や友情の基づいている地盤がなんと不安定なことよ、冷たい驟雨または悪い天気がなんと近くに迫っていることよ、どの人間もなんと孤立していることよ! 人がこれを洞察すれば、なおその上に、自分の隣人たちにおけるあらゆる意見やそれの性質・強さが彼らの行為と同様に必然的で責任のないことをも洞察すれば、性格・仕事・才能・環境などの解きがたい縺れからでてくる意見のこの内的必然性をみる眼ができれば–––おそらく彼はあの賢者が「友らよ、友というものはないのだ!」と叫んだ感覚の苦さや辛さを免れるであろう。むしろ彼は自認するであろう、たしかに友人というものはあるが、しかしお前に関する誤謬・錯覚が彼らをお前のところに連れてきたのである、そしてお前の友でありつづけるためには、彼らは沈黙することを学んでおかなくてはならない、なぜならほとんどいつもそのような人間関係は、なにか二三のことが決して口に出されぬこと、それどころか決してそれに触れられぬことに基づいているからである、しかしこの二三の小石が転がりだすと、友情はあとから追いかけていって砕けてしまう。自分たちのもっとも信頼している友人が実際自分たちについて感じていることを知ったとき、致命的に傷つけられないような人間がいるだろうか? –––われわれは自己自身を認識したり、われわれの本質そのものを意見や気分の移り変わる場所とみなしたり、こうしていくらか軽く視ることを学んだりしながら、ふたたび他の人々との均衡をとりもどす。われわれには、われわれの知人のだれをでも、そしてたとえそれがもっとも偉大な人々であろうと、軽く視るのに充分な理由がある、ということはほんとうである、しかし同様にこの感覚をわれわれ自身にむけるのに充分な理由もある。–––それでわれわれは、実際自分のことは我慢しているのだから、おたがいのことも我慢しあおう、そうすればおそらくだれにでもまたいつかもっとたのしい時がきて、そのとき彼はいう、

「友らよ、友というものはないのだ!」

そう死んでいく賢者は叫んだ、

「友らよ、敵というものはないのだ!」

–––生きている愚者のわたしは叫ぶ。

ーーーフリードリッヒ・ニーチェ『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』筑摩書房,1994年,p344-345

Portrait of a Sufi
first quarter 17th century


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