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PERCHの聖月曜日 94日目

甲賀流「描き文字」術のひみつ

ぼくの描き文字デザインの個性といっても、なかなか微妙でね。ゴシックの写植文字をピンセットで詰め貼りしただけでも、「あっ、平野のデザインだ」とわかっちゃう人がいるらしいから、描き文字だから個性的というような単純なことじゃないんだろうと思うんだけど・・・・。
たとえばグリコのおまけとか紅梅キャラメルの包み紙とかさ、昔の映画やストリップ小屋のポスターとか、そういうものが念頭にあることはある。ああいうものがもっていた庶民的な暖かさみたいなものに近づきたいという気持ちはあるんだ。あるいは、さっきもいった一九二〇年代の未来派やバウハウスやロシア・アヴァンギャルドがもっていた力強さとかね。
そういうものをそのままコピーしろといわれても、それはできない。そのことは自分でのよくわかっているから、「平野は一所懸命サンプリングしてコピーしてる」なんていわれても、ちょっとね。
ただ、ぼくの最近の作品のいくつかに、子どものころ、どこかの駅で見た映画のポスターといった感じがあるのはたしかだと思う。マックや「Illustrator」を使うようになって、そういう子どものころに受けたインパクトがどんどん表にでるようになってきた。考えてみれば、二〇世紀のアヴァンギャルド運動といったって、あれからまだ五十年か六十年しかたっていないんだからね。そのつづきをぼくがやったって、ちっとも不思議じゃないんだよ。いまだにその渦中にいて当然なんじゃないかな。
それと、もう一つ、ぼくの描き文字はかなり演劇的なんだよね。たとえば「白鯨」という文字があるとすると、もちろんそれだけでも読めるわけだけど、それにちょっと踊りを踊らせようと思って描くわけだ。ちょっとどころか、もう自分でも演技過剰じゃないかと思うくらい演技させている。
基本がゴシックだというのはそうだと思う。で、ゴシックというと漫画なんだよね。ぼくは「世の中はすべて漫画である」という認識があって、もうなにもかも漫画にしちまえってさ。
だから「笑う描き文字」なんだ。漫画のもつ痛快さや明るさ、それに毒や破壊力をいい方向で使えればいちばんいいんじゃないかと、これは冗談じゃなく思っている。書店に並んだときの強さということもあるけど、基本的にはやはり、ぼく自身がどこまで批評精神を持ちつづけることができるかということだと思うよ。
その点では、いままで、ずいぶん熾烈なたたかいをやってきましたね。初期のころは若気のいたりでギリギリまで削りこんで、「これはもうほとんどマークじゃないか」ってなものをつくったりしてね。まだやってるよ、読める、いや読めないのケンカは。

ーーー平野甲賀「文字の力」・著者インタヴュー「甲賀流コンピューターとのつきあいかた」(平野甲賀『文字の力』折込冊子より)晶文社,1994年

An old man with spectacles and one hand behind his back painting on a wooden block, illustration for 'El Rey que Rabio'
José Guadalupe Posada
Printer José Sanchez
ca. 1880–1910

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