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PERCHの聖月曜日 71日目

朔日(ついたち)と十五日

正月という言葉の人望は、大したものであった。中世には恐らくまるでなかったことだろうが、正月は年の始めの一月の名ではなくて、近頃はすべてこの月中の特にめでたい一日を、片端から正月と呼んでよいことになっている。例は挙げきれないが、少しかわったものだけでも、立春の日を神の正月、正月十六日の御斎日(おさいにち)を仏の正月、女の正月というのは正月十五日、または同二十日をそういう地方も多い。

小正月というのは家々の正月、すなわち以前の正月という意味らしく、奥羽から越後などは一般に十五日をそういっている。この日を花正月というのは関東の各地、対馬(つしま)でこれをまたモドリ正月カエリ正月ともいうのは、立返ってもう一度の正月ということであろう。実際またこの日を元日よりも大事にして、いろいろの忘れ難い行事を、今でも満月の頃に集注している村は決して稀でない。

[中略]

春は桜の咲きそろった頃に、家中村中が誘いあって、見晴しのよい岡の上などで、べんとう持ちで一日遊んで来ることを花見正月といい、または田植に待ち焦れた雨の降った次の日を、シメリ正月などといっていたのは、まだ正月よりも楽しいからと、いうような意味もあったろうが、千葉県南部などのミアリ正月は旧十月、亥の子の日のことであった。十二月は前にいう水こぼし正月の他に、さらに第一の巳(み)の日を巳正月、または巳午(みうま)正月という例もある。主として四国の四つの県に行われているが、これはその一年のうちに亡くなった人々のために、墓場の前に集まってする祭であった。この日も定まった食物を調じ、人が共々に食事をすることは同じだが、一名を死人の正月、新仏(しんぼとけ)の正月ともいう位で、ちっともめでたくはない正月であった。多分は世間と共々に、普通の正月をすることが出来ないので、日をくり上げて自分たちだけの年越をしようというわけだろうが、そうしてまでもなお一年のある日を、空しく過すことはしなかったという点に、遠い昔からの節日(せちび)節供の、根本の気持は窺(うかが)われるのであった。

ーーー柳田国男『年中行事覚書』講談社,1977(昭和52)年
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53812_50600.html

"Man's Fate or the Man Taking Refuge in a Well Inhabited by a Dragon", Folio from a Kalila wa Dimna
second quarter 16th century


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