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PERCHの聖月曜日 91日目

一五一二年の恐怖
システィーナ礼拝堂天井画製作の時期には、フレスコ画に立ち向かう超人的労苦や当時のミケランジェロが味わっていた孤立感、そして家族のいざこざなどからくるあらゆる種類の心労によって精神的な緊張が増幅されていたが、さらにそれに加えて、一五一二年にはスペイン軍がトスカーナに侵攻し、その結果の無惨なプラート劫掠とフィレンツェのソデリーニ政権崩壊という政治的ドラマが重なった。敵軍の接近を前にしたミケランジェロの衝動的な反応は、一四九四年に彼をフィレンツェ出奔に駆り立てたものと同じであった。
彼は弟ブオナロートに手紙を書き、財産などより生命を救うことだけを考え、いかなる犠牲をも顧みずに、即刻逃亡するにしかず、と家族に懇願している。「国家の問題には、行動でも言葉でも、いっさい関わりあうな。悪疫に対するがごとくふるまえ。真っ先に逃げ出すがいい」。スペイン軍によるフィレンツェ攻撃の危険が去り、メディチ家が政権に復帰したあとも恐怖は消えない。「危険、つまりスペイン軍の危険は去ったと思うし、もはや出立の必要はなくなったと思う。だが平穏に暮らし、神様以外の誰とも親しくしないように。また、良きにつけ悪きにつけ、誰のことも口にしてはいけない。まだ事件の結末がわからないのだから。自分たちのことだけを考えるように」。
誰とも親交を結ぶなという忠告は、疑いなく、メディチ派の新しい支配者に安易に近づくなということを意味している。数日後、ミケランジェロは父親に手紙を書き、ローマでメディチ家を非難したことを否認している。「もっともプラートの事件のように、誰もが公然と語り合っている事については別です。石だってしゃべることができたら、そのことをしゃべっていたでしょう。その後、ほかにもいろいろなことがこちらでは取り沙汰されましたが、それを聞いて、私も『もし彼らがそうやっているのが本当なら、彼らは悪いことをしている』と言いました。私はそんなことは全然信じませんが。神よ、そうでないことを願います」。
まさしくこの否認からは、芸術家がいかにプラートの虐殺に憤慨していたか、いかにメディチ家の復帰を苦々しく思っていたかが明らかである。しかし、上に引用したミケランジェロの家族への忠告は、自由の防衛や高い共和主義的美徳を称揚する高潔な勧告とはまるで別ものである。われわれの時代と比べて、当時の政治闘争がいかに功利的な性格をもち、いかにイデオロギー的内容が希薄であったかを媒酌するとしても、「自分たちのことだけを考えるように」という怯えきった言葉は、《ダヴィデ》の英雄主義的メッセージとは似ても似つかない。

ーーージョルジョ・スピーニ『ミケランジェロと政治 メディチに抵抗した《市民=芸術家》』森田義之・松本典昭訳,刀水書房,2003年,pp60-61

School of Michelangelo Buonarroti
Anatomical Study of a Knee
1475–1564


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