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PERCHの聖月曜日 60日目

ピエロッチいわく、『聖書』に馬を記せる例は、まずヨシュア記に、カナアン軍多くの車馬もてメロム水辺に陣せるを、ヨシュア上帝の命に随い敵馬の足筋を截(き)り、敵車を焼きてこれを破ると載す、元来イスレール人は山国に住んだから馬の用多からず、モセスの制条に王者馬を多く得んとすべからず、また馬を多く得んために民を率いてエジプトに帰るべからずとあり、しかるにダビットに至り、ゾバ王の千車を獲た時、百車だけの馬を残し留めた、ソロモンの朝ヘブリウ人の持ち馬甚だ多くなりしは、列王紀略上にこの王戦車の馬の厩四千と騎兵一万二千を有(もて)りとあるので分る、またいわく王千四百戦車一万二千騎卒ありと、その後諸王馬を殖やす事盛んで予言者輩これを誚(そし)った事あり、今日もパレスチナのサラブレッド馬種の持ち主は、皆これをソロモン王の馬の嫡流と誇り示す、けだしヘブリウ人は古く馬を農業に使うた事、藁と大麦で飼った事、共に今のアラブ人に同じく、鈴を馬に附けた事また同じ、『新約全書』に馬は見ゆれど、キリスト師弟乗馬した事見えず、またアブサロムやソロモンが騾(らば)に乗った事見ゆる、モセスが異種の畜を交わらしむるを禁じた制条を破ったようだが、今もパレスチナのアラブ人が多く騾を畜(か)いながら馬驢(ばろ?「ろば」のことか)を交わらしめてこれを作らず、隣郷より買い入るるより推さば、古ヘブリウ人も専ら騾を買って用いたらしい、パレスチナの古伝に、ヨセフその妻子を騾に乗せてエジプトに往かんとこれに鞍付くるうち騾が彼を蹴った。その罰で永世騾はその父母子孫なく馬驢の間に生まれて一代で果て、また人に嫌われて他の諸畜ごとく主人の炉辺に近づけくれず、驢は『聖書』に不潔物とされ居るが馬がなかった世に専ら使い重んぜられ、古く驢と牛をあわ(「耒+禺」)せ耕すを禁じ(驢が力負けして疲れ弱りまた角で突かれる故)、モセスの制に七日目ごとに驢牛を息(やす)ますべしとあると。

ーーー馬に関する民俗と伝説『十二支考』南方熊楠,岩波書店,1994年(1918年初出)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/2537_21654.html

Caricature with two men on a mule
Giovanni Ambrogio Brambilla
1575–99

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