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PERCHの聖月曜日 63日目

いや、まるで正反対だ。私たちは、個人的な様式を否定的に見るのではなく、心の限界の証しとしてむしろ賛美する。実際、カメレオンのようにいろいろな様式を着たり脱いだりできるような人は、自分の様式というものをもっていないのだろうし、たんなるサロン演奏家というか演芸的物まね家なのである。その人の「限界」(と呼ぶことにしての話だが)がとても明白で、とても目だつとき、私たちは偉大さを認めるのである。もしあなたがラヴェルの音楽様式をよく知っているならば、ラヴェルの音楽はいつでも聞きわけることができる。彼が偉大なのは、彼がそれほどにも認知しやすい、つまりまさに比類なきラヴェルの型にはまっているからである。たとえモーツァルトがあのモーツァルトの型から大きく飛びだしたとしても、ラヴェルの型にはまらなかったという保証はない。要するに、誰も無限に遠くには飛びだせないのだ。

モーツァルトにしろラヴェルにしろ私たちにしろ、かなり反ジガバチ的ではあるが、完全ではない。これが、私たちの個人的な様式、個性が世の中にどう出ていくかについて完璧には自己監視できないということなのだ。

ルーカスは(私が信じるところ)多くの哲学者、論理学者、コンピュータ科学者に、ゲーデルの論文の土台となっている議論の重要で精妙な点をたくさん見すごしていると激しく批判されているが、これらの批判の大半は、ルーカスがここではじめて指摘した心の重要な側面を見逃している。ルーカスは意識あるものに認められる非機械性の程度が、つぎつぎとレベルを上げていける自己監視能力に直接関係していることを正しく観察している。不運にも、人工知能研究者の大半が、ルーカスの論文を中心主題–––心は機械化できない–––が間違っているといいはなってしまっている。知能と創造性の本質にかかわる深い議論がなされていることを見すごしてしまっているのだ。

ーーーダグラス・R・ホフスタッター「創造のひらめきは機械化できるか?(1982年11月号)」『メタマジック・ゲーム 科学と芸術のジグソーパズル』白揚社,1990年,p527

Hall of the horses, Palazzo Te, Mantua
Giulio Romano
1524

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