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PERCHの聖月曜日 28日目

「キッチュ」は、いわば、大衆の好みである。霊柩車の、あの奇妙キテレツなデザインは、大衆の好みがつみあげられてでき上がったものである。文化エリートがいかに文句をつけようと、その「ふてぶてしく」「あっけらかん」とした好みが押し切って、あのかたちができあがった。霊柩車のあのかたちは、大衆の好みのシンボリックなかたちであり、ラブ・ホテルのデザインなども、まさしくそのひとつであろう。
ところで、「キッチュ」の制作者であった大衆も、霊柩車はデザインできても、病院やその内部で用いられる医療器機のデザインに参加できない。キッチュなレントゲンや、キッチュなメスや、キッチュな胃カメラなんてない。日常生活からも「キッチュ」はどんどんとり去られていって、街も家も家の内部も道具もモダン・デザインで占拠される。電話の受話器に、花模様のカバーをかけるようなことは、「キッチュ」の滑稽でかわいらしい抵抗に他ならない。しかし、家の中に、ワープロやコンピュータやビデオの類が次々に入ってくると、はかない抵抗はもう追いつかなくなる。
霊柩車のあのゴテゴテのデザインは、葬儀の聖性に反している。ただし、「キッチュ」であるゆえのその反聖性が、病院の医療器機のなかに収容されて、そこでモノのように死なねばならぬ人間に、なにかヌクモリを感じさせるのは皮肉である。もし霊柩車が、モダン・デザインの、洗練された、ステンレスやプラスティックの箱型であったら、むしろその方に反聖性を感じるのではないだろうか。洗練と「キッチュ」とのバランス感覚が、ヒトの集団社会のなかには働いているのであろう。

ーーー富岡多惠子「キッチュの力」『女の表現 富岡多惠子の発言3』岩波書店,1995年,p193

Ceramic Horn
French
late 18th or early 19th century

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