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ブビンガのカウンターテーブル。

昨年11月、ひとりの女性と出会った。通称、マダム。東京在住だが、紹介してくれた方曰く「普請道楽」であり、京都でも3軒購入して、それぞれ特別な飲食店を開こうとしていた。

そのうちの1軒が、木屋町沿いの2階建て一軒家の物件。1階には祇園の商業ビルの地下にあった金沢おでんの店が移転することになっていて、2階を日本酒バーにしたがっていた。それで「話、聴いてみる? 初期投資はするって言ってるよ」と言われ、紹介していただいたのだ。

待ち合わせ場所は室町の北京料理「膳處漢ぽっちり」だった。昭和10年に建てられた呉服屋をリノベーションしていて、外観はクラシカルな洋館だが、中に入ると暗い廊下の先が待合とビアホールになっている。その奥は日本家屋となっており、食事はここでいただく。

待合で挨拶したマダムは私を見るなり、「あら、こんな可愛らしい方が引き受けてくださるの?」と言った。目があまり良くないらしく、20代に見えたらしい。52ですと言ったらまじまじと見返され、「その年齢なら逆に安心ね」と言い直された。

ランチ中は京都に来た理由や、これまでの経歴、飲食店でのバイト経験などを聞かれた。「つまり、経営したことはないのね?」「はい」「あなたは店長として働いて、経営できる人を他に見つけるってことはできる?」「……できれば自分ひとりで店をやりたいです」「そう」

店を出ると、紹介者は仕事に戻り、私とマダムはタクシーでその木屋町の物件に向かった。果たして素敵な物件だった。まずエリアがいいし、箱も3方がガラス窓で、その1方からは鴨川を見下ろせる。だが、いかんせん広すぎた。私がやりたいと思っている規模(いまの粋)の4倍はある。「これは私の予想の4倍くらい大きいです」「だったらバイトを雇えばいいじゃない。こんないい場所の物件で、しかも初期投資しなくていいなんて、恵まれているわよ」。確かにそうだった。

その後、もうひとつ進行中の物件が円山公園にあるというので、見に行くことになった。鴨川の川縁を歩きながら、マダムは問わず語りにこれまでの人生を語り出した。10代のころから料亭をやりたかったこと。そのために新橋(東京)の芸者になったこと。結婚し、料亭の女将になって、店を切り盛りしていたこと。たくさんのお客様に恵まれたこと。料亭が傾き、料理人がいなくなったときに、自ら調理師免許を取り、すべての料理を自分でつくるようになったこと。料亭を閉めたあとは不動産業に進出し、成功をおさめたこと。夢を実現させる力、そして何事も最後まで諦めない強さのある人だなと思った。

その夕方、マダムからLINEに連絡があった。「今夜はどうしてる? 良かったら来ない?」

私は指定の店に急いで向かった。そこは先の物件の1階に入る金沢おでんの店で、私は一度、「わしょく宝来」のアルバイト後にお客様に連れてきてもらっていた。そのときに私も金沢出身だと伝えると、店主が喜んで菊姫を出してくれた。

カウンターに座り、「なんでも好きなの食べなさい」というので、お造りとおでんを頼んだ。そして早速、木屋町の物件を引き受ける気があるかどうかという話になった。目の前の店主も「カオルさん、ふたりで(1階と2階で)やりましょうよ。応援しますよ」と言う。私が「本当にとてもありがたいお話なのですが、自分のいまの器量ではお引き受けするのは難しいと思うんです」と言うと、マダムが「あなた、どういう店をやりたいの?」と聞く。

「さきほどお話したように、私はいま『日本酒BARあさくら』という店で週一回アルバイトをしているんですけど、そこはカウンター9席にテーブル4席なんですね。価格帯でいうと、チャージが500円で、日本酒1杯あたり800円〜1500円くらいで、古酒だともう少し高くて……」

「あなた、何言ってるの。そんなんじゃなくて、獺祭をグラスワインに注いで、1杯3,000円で売るのよ!」

そりゃ私がやりたい店ではなーい(笑)。というわけで、この日は楽しく飲んだは飲んだが、マダムはこの女に店をやらせる(店子として家賃を払ってもらう)のは無理だと諦めたらしかった。

翌日の金曜日、マダムは「日本酒BARあさくら」に仕事仲間とふたりで来て、たくさん飲んでくれた。そういう義理堅い人でもあった。そして、私が送った朝日新聞の連載記事を読み、こうレスをくれた。「筆力を持って生まれたということは誰もが授けてもらえる神様からの贈り物ではありません。しっかりとこの分野であなたの才能を開花させることのほうがどんなに素晴らしいか。そこで私があなたに何をしてあげられるかといえば、せめて京都に行ったときにはあなたのエッセイに深みと幅を少しでも加味できるような体験をつくってあげられればと思います。頑張ってね!」

1週間後、「明日のお昼時間ある? ちょっと相談があるので食事でもしながらどうかしら?」と連絡があった。場所は初めて会った日に見学させてもらった円山公園の物件隣の和食店。相談事というのは、この円山公園の物件のことだった。ここは隠れ家的な会員制バーができることになっていて、手前にはカフェとギャラリーが併設される。そのギャラリーで展示を手がける手伝いを引き受けてくれないか、という相談だった。

「あなた、自分の店でも絵画展や写真展をやりたいって言ってたじゃない? だったらそれまでの勉強にもなるでしょ。しかも給与は支払うし、執筆業の合間に作家の選定と個展の依頼をしてくれたらいいのよ」

これまたありがたい申し出ではあった。私は瞬間的に「それならできるかも」と思って、わりと前向きな返事をしてしまったのだが、よくよく考えてみると、これはギャラリストの仕事であって、自分には到底務まりそうもないことがわかった。作家の選定や依頼だけなら編集業と似ているけれど、そもそもギャラリストではない人の依頼を誰が受けてくれるのか。受けてくれたとして、作品の展示期間中、誰がそこにいるのか。誰がその作品についてお客様に説明するのか。それ以前に作品の展示や展示終了後の返却は誰がやるのか(これは作家本人が来てやってくれるのかもしれないが)。作品が売れた場合はどのように梱包・発送するのか。海外への送付はどうするのか。これを知識のない人が本業の片手間にやるなんて、絶対無理やん。あかんあかんあかん、しっかりと断らねば!!!!!

というわけで、マダムの次の来京のときに時間をいただいた。マダムは京都にもマンションを借りていて、まずはそこに向かい、近くの店で食事をした。私は上記を伝え、自分は引き受けられないけれど、専門家(ギャラリスト)を探してみますと言った。マダムは残念そうな顔をして、「いいわよ。あなたはあなたのやるべきことに時間をつかって。ギャラリストとやらは私が自分で見つけるから」と言った。

マダムは渡したいものがあるから、と私をもう一度マンションに招き、着なくなった服をいくつかくれた。そして、「あなた、さっきここまでタクシーで来たって言ってたわよね。はい、これ、タクシー代」と一万円を差し出した。「いやいや、タクシーを使ったのは遅れそうになったからですから。大丈夫です」と断ったけれども、「いいのいいの。受け取ってちょうだい」と引っ込めない。

私はそのとき、感じた。あ、これは一種の手切れ金なんだなと。それで素直に受け取ることにした。

1カ月半後、私は仁王門通りの物件を借りられることになり、マダムにその旨の報告と、11月に数回お会いしてとても刺激になり学びもあったことへのお礼、依頼を引き受けられなかったことを再度詫びた。マダムからはたった一言、「よかったわね」とのレスがあった。その後、一度も互いに連絡をしていない。たぶん、偶然以外はもう一生、会わないのだろう。そういう出会いも存在する。

昨日、くだんの円山公園のバー「薫(くん)」に、友人の紹介で行くことができた。ブビンガという木材の一枚板の見事なカウンターテーブルには14名が座れる。私たちはそのほぼ中央の席に案内された。目の前には見事な桜の日本画。背中側の庭に青紅葉と百日紅、そしてこれも見事な一枚岩。マダムと見に来たときはスケルトンだったから、感慨深かった。

私はデュワーズ15年の水割りを頼んだ。「水割り」とあるが、90℃のお湯で割り、それを関西伝説のバーテンダー(BAR K6やK36 Rooftop & The Barを手がけた)西田稔さんがくるくると華麗な指先でグラスを回して、出してくれる。体にすうっと浸透していくような、これまでに飲んだことのない味わい。美味しい。1時間しかなかったので、グレンモーレンジ10年を追加で頼み、店を出た。西田さんが外まで見送ってくれた。

実は「粋」の檜のカウンターテーブルを支えている1本の脚は、「薫」と同じブビンガだ。マダムとは会わないだろうし、ブビンガはマダムが用意したものではないけれども、同じ時空の中に私たちはいるんだなと思う。

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