聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」 第2回〈知的トリック〉
【カトリック芸術信仰】
聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」の「知的トリックの秘密」
副題 イマヌエル・カント「純粋理性批判(第二版序文)」
「知識の廃棄」と言う「知的トリック」
聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」は「探偵小説」である。
「探偵」は「詐欺師」ではない。
「真実と誠実」を持って「探偵」とされる。
この作品の「探偵」は「金田一耕助」であった。
ただ世界中には数多くの「探偵小説」が存在する。
エドガー・アラン・ポーの「デュパン」であったり、サー・アーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」、アガサ・クリスティの「ポアロ」、「ミス・マープル」は特に現在でも有名である。
そしてレイモンド・チャンドラー「フィリップ・マーロウ」やダシール・ハメット「コンチネンタル・オプ」もコアな探偵小説ファンの間では特に有名だろう。
ただこれらの「探偵小説」に「真実と誠実」がないならば殉教者(確信性の確保)は存在せずコンフィデンスマン(倒錯性の支配)と見做される。
そうなると「探偵小説」の不成立となるだろう。
そういった作品とは「探偵小説」ではなく「詐欺師の完全犯罪」と言えるからです。
その試金石が「真実と誠実」であって殉教者(確信性の確保)でした。
「探偵小説」の殉教者(確信性の確保)は「知識の廃棄」によって齎される。
イマヌエル・カント「純粋理性批判(第二版序文)」が指し示す「知識の廃棄」はイマーゴ(神の似姿)を黙示する。
それが殉教者(確信性の確保)だった。
それは「真実と誠実」のあり方でした。
ソクラテス「無知の知」は殉教者(確信性の確保)の典型的あり方です。
「探偵小説」にはこのような「知識の廃棄」による「真実と誠実」が必要となる。
何故なら「探偵」とは「詐欺師」ではないからです。
ここで明確に宣言する。
「探偵小説」の「知的トリック」とは「知識の廃棄」であった。
これはイマヌエル・カント「純粋理性批判(第二版序文)」に指摘されている通りだった。
そして私は聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」に「探偵小説」の成立を見たのである。
聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」における「知識の廃棄」とは?
この「探偵小説」の簡単な流れを指摘したい。
「金田一耕助」は「磯川警部」の紹介で鬼首村の湯治場「亀の湯」を訪れる。
湯治場「亀の湯」の女主人は「青池リカ」であった。
ただ「青池リカ」とは「猟奇的殺人事件」の真犯人であったのです。
そしてこの後「猟奇的殺人事件」の「全貌」は「人の探偵」の「金田一耕助」によって明らかにされていく。
しかし「人の探偵」の「金田一耕助」によって明らかにされた「青池リカの犯行動機」は「知識の廃棄」とされる運命にあった。
この事件の「真の全貌」は「知識の廃棄」により殉教者(確信性の確保)によって齎される。
それはイマヌエル・カント「純粋理性批判(第二版序文)」であって「真実と誠実」のあり方を示していた
この仕掛けが「最高の知的トリック」だった。
聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」はかなり高尚な仕掛けを持った作品であったのです。
「悪魔の手毬唄」の「見立て殺人」は「猟奇的殺人事件」に見えた。
しかしそこは「知識の廃棄」によって「真実と誠実」が齎される。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)は禁忌とされ、殉教者(確信性の確保)が作品を形成していく。
それは「聖書」を意味している。
そのような「男女の愛の証し」を「最高善の神罰」によって黙示したことが大事件となった。
この「探偵小説」の成立は「真実と誠実」が「男女の愛の証し」となっていることであり得たのです。
だからこの作品は「探偵小説」の傑作であって、同時に又「恋愛小説」の大傑作でもあった。
それはお互い(男女)が「神のエレクト」であって殉教者(確信性の確保)を解する高尚な存在であることを示している。
「神の番の証し(Holy Communion)」の在り方を黙示している。
「青池リカ」の正体
「青池リカ」は下賤の身分であったが殉教者(確信性の確保)の「高尚な女」だった。
湯治場「亀の湯」は「屋号」もない存在であった。
それは「鬼首村の最下層」を意味する。
例えば湯治場「亀の湯」の女中がいったセリフがあった。
「うちの屋号は笊屋です。」
この発言は女中の身分の低さを物語っているようでいて、実際は最下層の「亀の湯」を示していた。
「屋号」のない「亀の湯」はその「笊屋」より下に位置する存在だったのです。
しかも実際に「青池リカ自身の境遇」は完全に不明とされている。
「女道楽」という芸能活動をしていて青池源治郎と出会い鬼首村に流れ着いたというだけなのです。
最下層の「亀の湯」より更に下の「謎の女」であった。
そして「青池リカ」の職業だった「女道楽」とは「女の道楽」ではなく「男の道楽」に供される存在であっただろう。
それは「愛の証し」とは程遠い存在なのです。
青池リカには「愛の証し」をする必要があったのです。
それを解する存在は「磯川警部」が差し向けた「神の探偵」の「金田一耕助」であった。
そして「真実と誠実」を持った「愛の証し」とは「磯川警部」に向けてなされたと推察される。
名前に見る殉教者(確信性の確保)
この聖横溝正史原作「悪魔の手毬唄」による「猟奇的殺人事件」の在り方は「種蒔きの譬」を想起させる。
ただ「人名」とはその人を明確に提示しているのだろうか?
「人の名」が「種蒔きの譬」を意味しているのなら、「阿弥陀如来」は「偶像崇拝と呪物崇拝」であり「善い地の上」ではないことを示している。
「偶像崇拝と呪術崇拝」の「子」は「善い地の上」に蒔かれていないことを示していいる。
「善い地の上」に蒔かれるとは「神の子」を示している。
一羽の雀
泰子の「泰」は「水」を示している。
これは「枡屋の娘」を意味している。
こういった名は「偶像崇拝と呪物崇拝」であり「善い地の上」ではないことを示している。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)であって殉教者(確信性の確保)を示していない。
「神の恵み」を受けた「神の子」ではない。
二番目の雀
文子の「文」は「文章の文」ではなく「秤屋の屋号」を示している。
「文の意味」ではなくその文字の形が「秤の形」となっているのです。
この名も「偶像崇拝と呪物崇拝」であり「善い地の上」ではないことを示している。
これもコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であって殉教者(確信性の確保)を示していない。
これも「神の恵み」を受けた「神の子」ではない。
三番目の雀
千恵子の「千恵」とは一体なんだろうか?
ここには「偶像崇拝と呪術崇拝」は見られない。
しかし千恵子は殺される筈の「鍵屋の娘」であった。
「千恵子」は「神の恵み」を願う名である。
「神の恵み」を受けた「神の子」を示している。
それは大空ゆかり(千恵子)が唯一人の恩田幾三の私生児(賤民)として鬼首村で生きることになったためであるかもしれない。
「楡家の娘」も「由良家の娘」も実は恩田幾三の私生児(賤民)でありながらご大家ということで秘匿できた。
そして大空ゆかり(千恵子)は一人で鬼首村の生贄とされ一身に責めを負うことになった。
これはご大家が恩田幾三の私生児(賤民)とされていた大空ゆかり(千恵子)をスケープゴートとした観がある。
そして青池リカも夫を殺された被害者として大空ゆかり(千恵子)を私生児(賤民)として遇した筈です。
この試練が大空ゆかり(千恵子)に対して「最高善の神罰」が下されなかった理由とも考えられる。
また千恵子はもともと恩田幾三の子ではなかったという「仮説」もあり得る。
それは日下部是哉というマネージャーは市川崑映画では「諂った人物」として描かれているけれど「横溝正史原作」では実に「貫禄ある人物」として描かれている。
この違いは何を示しているのだろう?
そしてその日下部是哉と大空ゆかり(千恵子)の母の春江は夫婦関係と言ってもよく、大空ゆかり(千恵子)も日下部の娘のように描かれている。
ただこの円満な親子関係が殉教者(確信性の確保)ではないという指摘は可能だろう。
しかしこの過剰な円満さは何を物語っているのだろうか?
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)というより「愛の証し」を垣間見させる。
大空ゆかり(千恵子)の「神の子」の資質と言えるものであるだろう。
そして大空ゆかり(千恵子)は一人だけ恩田幾三(青池源治郎)の娘の中で殺されなかった。
何故なら「最高善の神罰」が「神の子」に下る筈がなかったからである。
青池里子の死
三番目の雀の筈だった大空ゆかり(千恵子)の代わりに青池里子が犠牲となった。
しかし里子は勘違いをしていた。
里子は「痣」のために母が劣等感を感じて引き起こした殺人事件だと解釈していた。
しかしそれは大きな間違いだった。
里子は「偶像崇拝と呪術崇拝の「子」であって「神の子」ではなかった。
「金田一耕助や磯川警部」のように殉教者(確信性の確保)ではあり得なかった。
里子はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だったのです。
それは人名にも顕れている。
兄の「歌名雄」と妹の「里子」の人名の違いがあり過ぎるのです。
「歌名雄」と言う人名は本当に考えて付けられたレアなものであった。
「歌名雄」と言う人名を他で見たことはない。
「歌名雄」には「神の恵み」を見い出せる。
何故ならば「ヨハネによる福音書」を想起させるからである。
はじめに、ことばがいた。
ことばは、神のもとにいた。
ことばは、神であった。
それに比べて「里子」の人名は凡庸で平凡すぎる。
ここに「神の恵み」を見い出すことは不可能だろう。
敢えて言えば「里」とは「人の恵み」を意味している。
それは「偶像崇拝と呪術崇拝」の「子」を意味している。
その点で言えば「里子」には「痣」があり、「偶像」は醜いが「内面」には「神の恵み」があるという「理念」すらなかった。
全くの対照的は兄妹の名前であった。
どうしてここまで差ができたのだろうか?
青池源治郎のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)が完全に判明した後に生まれた子供だからだろうか?
それとも別の理由があるのか?
明らかに「里子」の資質は「偶像崇拝と呪術崇拝」の「子」だったのだろうか?
「歌名雄」は誰の子供なのだろうか?
「歌名雄」の資質は「神の子」だったのだろうか?
また結局は「三番目の雀」が「里子」であって然るべき理由がある。
里子は「痣」を人目に晒すのを嫌って土蔵の中に暮らしていた。
それ自体が殉教者(確信性の確保)の感覚とは違う。
「知識の廃棄)」を示していない。
里子は「偶像崇拝と呪術崇拝」の「子」であったのです。
そして「土蔵」とは「鍵と錠前」を示していると見做すことができる。
「土蔵の鍵と土蔵の錠前」が「三番目の雀」のいう「錠前屋の娘」となるのです。
ゆかり御殿焼失
青池リカは「里子」を殺した後にも「大空ゆかり(千恵子)」の建てた「ゆかり御殿」を焼き払い、そして追い詰められて沼に頭から突っ込んでみっともなく死んでいった。
彼女の至上命令は「愛の証し」であり、それがどうして「ゆかり御殿」に対する「放火」となったのだろうか?
「ゆかり御殿」とは「偶像崇拝と呪術崇拝」の「子」の象徴的存在だった。
これは「大空ゆかり(千恵子)」を狙った「最高善の神罰」ではなく「ゆかり御殿」というコンフィデンスマン(倒錯性の支配)に対する雷だった。
それは殉教者(確信性の確保)のあり方だった。
そして青池リカは「男女の愛の証し」だけに拘って恥も外聞もなくみっともなく死んでいった。
それは「見立て殺人」の殉教者(確信性の確保)に対する拘りが「男女の愛の証明」対する拘りとしてあったためだろう。
要は「知識の廃棄」を容易にするための「悪魔の手毬唄」だった。
「悪魔の手毬唄」に対する「知識の廃棄」によって殉教者(確信性の確保)の「愛の証し」が見い出される時に、この「探偵小説」は聖愛物語(ラブストーリー)となっていく。
この横溝正史原作「悪魔の手毬唄」とは「愛の探偵譚」だったのでした。
読者はこの作品から「愛」を見い出していく。
「愛を巡る探偵」は最後に呟いたのです。
「失礼しました。警部さん、あなたはリカを愛していられたのですね。(失礼しました。警部さん、リカはあなたを愛していられたのですね。)」
このような殉教者(確信性の確保)の在り処の問題とは結局、旧約聖書サムエル記「ダビデとゴリアテ」の「最高善の神罰」であり、新約聖書「イエス・キリスト」の「愛の証し」であったのです。
(再編集版)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?