【聖宮崎駿信仰】【千と千尋の神隠し】「最高善の神の試金石」とは?-イマヌエル・カント「純粋理性批判」による黙示だった。
特集「最高善の神の試金石」
イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。
1「千と千尋の神隠し」は「人間動物」に対する「最高善の神の試金石」である。
世界的映画祭大賞受賞アニメ映画「千と千尋の神隠し」によって齎された「宮崎駿ファン」の間の決定的な「立場の大逆転(黒ミサ)」
アニメ映画「千と千尋の神隠し」は私の周囲における人間関係で「宮崎駿ファン」の「立場の大逆転(黒ミサ)」を引き起こした。
宮崎駿の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を愛し「大ファン」を自称していた私はアニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」やアニメ映画「風の谷のナウシカ」などを特に愛好していた。
そして非常に高く宮崎駿の才能を評価していた。
彼の作品は私にとって「Holy Communion」を信仰し生きていくことが『奇跡』を引き起こすという『現実逃避の産物』でありそれは『神聖な娯楽』となっていました。
私にとって『民衆の阿片』の様に存在していたのです。
それは『忌むべき現実逃避』であったけれどそのような「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が『最高善の神の奇跡』を引き起こすという内容は私にとってイマーゴ(真善美の回復)であったのです。
※ヘーゲル法哲学批判序説(カール・マルクス著)
しかしこのアニメ映画「千と千尋の神隠し」は複数の世界的映画祭で大賞を受賞するなどして今まで宮崎駿ファンを公言していなかった私の周囲の人間関係を構成する人たちが「主張」を始めたのです。
その「主張」の内容と評価の是非はさて置き今まで私が周囲の人間関係の中で宮崎駿ファンの「第一人者」であったことを忘却したかのように自分自身こそが今までも宮崎駿を高く評価していてそして真に理解していたと主張し始めたのです。
それが私の周囲の人間関係で起こった「立場の大逆転(黒ミサ)」でありました。
複数の国際映画賞で大賞を受賞した宮崎駿監督のアニメ映画作品
2「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」による呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)の世界観(doxa)
フロイトの言う「至高の抽象化の高み」と「原始的段階に近い」の「聖戦」と「黙示」
ただ言えることはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)はオマージュ(印象操作)を形成する条件となる。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「敵対感覚(原罪)」を形成するプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は政治的宣伝コンテンツ作品を制作する。
それによって「政治的エリート」がオマージュ(印象操作)として誕生する。
例えばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の芸術を制作したとする。
しかしそれは独自性(著作権)の存在とはなり難い。
何故ならばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の信仰作品でありカトリックとして「最高善の神の意志」の導きによるものだからです。
だからその人又はそのグループの独自性(著作権)とはなり得ないのです。
その一方でプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に「敵対感覚(原罪)」を形成するために制作された政治的宣伝コンテンツ作品でありそれは「最高善の神の選民(Holy Communion)」を全弾圧した非常に独特な世界観(doxa)となる。
そしてオマージュ(印象操作)は世界を支配下に置くことになる。
※しかしこのようなdoxaの作品は独特ではあるが芸術作品とは絶対になりえない。doxaからイノセントであるものが芸術であるからです。それはバプテスマと言えます。芸術作品とは「神の著作権」であり、一般に言われる「人の著作権」は印象操作と詐欺行為の産物であると言えるでしょう。それはギルティの産物であり「逆切れ」の犯罪者となるのです。
しかし宮崎駿は「最高善の神の試金石」の映画を制作することでカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解する「最高善の神の選民(Holy Communion)」と「プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のオマージュ(印象操作)」を黙示することを試みたと見做せます。
「立場の大逆転(黒ミサ)」の意味
この大逆転(黒ミサ)の意味が大きいのは、それが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の違いを明確にしてしまったことです。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「イマーゴ(真善美の回復)」としての「芸術作品」を成立させる。
しかし「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は、その「神の如く存在するカリスマデマゴーグ」の扇動によって成立する「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)の世界観(doxa)」となる。
しかしそういった「神の如く存在するカリスマ性のデマゴーグ」は「前衛詐欺(屁理屈)」である。
例えば宮崎駿のカリスマ性は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によっている。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」からの「イマーゴ(真善美の回復)」の具現化が彼の「芸術作品」だからです。
それに対して「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「神の如く存在するカリスマデマゴーグ」は扇動によって成立する擬物の世界観(doxa)であり「前衛詐欺(屁理屈)」の統治である。
宮崎駿作品の在り方
彼の作品はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によっている。
それは芸術制作を意味している。
しかしそういった世界(最高善の神の選民(Holy Communion))を全弾圧する世界観(doxa)はそのような芸術(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))に対して「敵対感覚(原罪)」を形成する政治的宣伝コンテンツ(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))を制作する。
世界観(doxa)というプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)はその世界の政治的指導者としてオマージュ(印象操作)をそこに据えるのです。
それがカリスマの存在です。
しかしこのアニメ映画「千と千尋の神隠し」は宮崎駿によって独特な世界観(知)が描かれることになった。
それはなんとも言いようがない世界観(知)でありました。
しかしこの世界は一見ではたいへん「労働を賛美する世界」であり「政治的宣伝コンテンツ作品」であるかに見えます。
そしてそこを非常に高評価し「国民は斯くあれ」と言い出す輩も多々いたことも皆さんご存じの通りです。
それだけを見ればこの映画は宮崎駿が制作したプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)であるだろう。
そしてそれだけを見る人はきっとオマージュ(印象操作)としてだけ振る舞うだろう。
そうなのです。
ここだけ見れば宮崎駿のアニメ映画「千と千尋の神隠し」は政治的宣伝コンテンツだと見做せるでしょう。
ここで疑問が起こるのです。
宮崎駿はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の芸術家であるか?
それとも宮崎駿はプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の政治的宣伝コンテンツ作品制作者であるか?
この映画に芸術はあっただろうか?
要はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が存在しているのだろうか?
しかしこのアニメ映画「千と千尋の神隠し」は「最高善の神の試金石」として用意されたものであったのです。
そしてこのアニメ映画はイマヌエル・カントの「純粋理性批判 第二版序文」の「信仰を入れる場所を確保するために知識を捨てなければならなかった」を描くという最高に近いカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であったのです!
これは宮崎駿の大傑作であったのです。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によってイマヌエル・カント「純粋理性批判」を描いた傑作であるからです。
しかしプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)だけしか見えないオマージュ(印象操作)にはこのアニメ映画は政治的宣伝コンテンツ作品にしか見えないのです。
その分かれ目が「最高善の神の試金石(千と千尋の神隠し)」によって為されるのです!
3「前衛詐欺(屁理屈)」に対し「純愛信仰」の解説
キリスト教においての純愛信仰
4「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは「最高善の神への純愛信仰」である。
最高善とは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉であり、それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉させる。
最も基本的な「知」の在り方は「無知を知」であり、「知の廃棄」から「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を受肉することであり得る「最高善の神の知」である。
それが人間の「知性(悟性)」であり、「理性」であり、最後に「学者」となる。
〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉の科学的思考がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉させて人はイマーゴ(真善美の回復)となるのです。
それがイマヌエル・カントの「純粋理性批判」の核心である。
それは「叡智」でありそれは「芸術」として「学問」として具現化される。
そして「最高善の神との関係」における「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の在り方がイマーゴ(真善美の回復)となっているのです。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)とはイマーゴ(真善美の回復)として存在するのです!
※カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の体験から信仰が受肉するシーン
5 宮崎駿信仰(イマーゴ〈真善美の回復〉)と宮崎駿崇拝(オマージュ〈印象操作〉)の二分化による「revelation(黙示)」の可能性
宮崎駿の作品はイマーゴ(真善美の回復)を具現化した芸術と言えるが宮崎駿の評価はこのアニメ映画「千と千尋の神隠し」によって逆にその「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧する「オタクのオマージュ(印象操作)」の正当性を生み出す。
それによって「オタクのオマージュ(印象操作)」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解しているアニメファン(最高善の神の選民(Holy Communion))との間において同じ『宮崎駿作品ファン』を自認していながら違いが明確に生まれてしまったのです。
宮崎駿の意図はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を完全弾圧する世界観(知)の構築をすることだった。
それはプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)としての「オタクのオマージュ(印象操作)」を容認した世界観(知)の構築でありそれが世界的に高評価されたと多くの人に見做された。
しかしそれは「知識の廃棄」の在り方を描くために廃棄されることが前提とされた「知識(プロテスタントデマゴーグ〈醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間〉)」だったのです。
それは逆にそのような世界観(知)の完全廃棄を容易にしているのです。
完全廃棄された場所に信仰を入れる場所が確保されます。
完全な「知的トリック」だったのです。
そのような「知識(プロテスタントデマゴーグ〈醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間〉)」は「doxa」と言えるだろう。
オマージュ(印象操作)は「ソクラテスの産婆術」の如く宮崎駿の「千と千尋の神隠し」に仕留められたのです。
6 そもそもアニメ映画「千と千尋の神隠し」の何が良いのか?
そこで問われるのが「千と千尋の神隠し」の一体何が良かったのかという宮崎駿ファンのそれぞれの理由の差異によって「宮崎駿ファン」の「質」と「量」の違いが明確になります。
その違いは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を解する存在と「プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のオマージュ(印象操作)」を形成する存在の間にあります。
7『最高善の神の試金石』 黙示(revelation)
「最高善の神の試金石」として言えるのはこのアニメ作品で宮崎駿が描いている「ヘンテコリンな世界観(知)」が、「奇妙な法則(呪術崇拝)」と「奇妙な偶像(偶像崇拝)」によって成り立っているということです。
しかし宮崎駿の創ったこのフロイトの言う「原始的段階に近い劣等な世界観(知)」は『廃棄を前提』にして描かれていて、結局はその「知(doxa)」を廃棄した場所に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所の確保が出来ることを示しています。
それは高尚なイマヌエル・カント「純粋理性批判 第二版序文」がテーマになっており最後のシーンでそれは明らかになります。
私はアニメ映画「風の谷のナウシカ」を愛しているけれどその「世界観(知)」は非常に独特な終末的であるけれど解りやすかった。
アニメ映画「風の谷のナウシカ」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の純愛信仰のナウシカが主人公であり彼女が「奇跡」を起こすストーリーであります。
しかしアニメ映画「千と千尋の神隠し」のキャラクターと「世界観(知)」は解りづらく歪で醜く異様に思えました。
それは主人公の千尋(千)は映画の当初では「信仰を入れる場所を確保できずにいるストレイシープ」であった故に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の入れる場所を確保する存在ではなかった。
それがこの「ヘンテコリンな世界観(知)」で生活していくうちにその世界観(知)の廃棄が彼女の純愛信仰の入れる場所の確保となり彼女は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を受肉するのです。
それがこの映画の最後の「大当たり!」の示すところであるのです。
プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)からオマージュ(印象操作)に向かいどうしようもない自分自身の絶望的な状況の中でストレイシープであった「千尋(千)」はこの世界観(知)を「知識(doxa)」として見出しそれを「廃棄」することで「信仰」を入れる場所を確保するストーリーとなっています。
私は宮崎駿作品としてはアニメ映画「千と千尋の神隠し」を愛好はしていません。
それはアニメ映画「ルパン三世カリオストロの城」やアニメ映画「風の谷のナウシカ」を愛しているからです。
それはその作品が明確なカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の芸術となっていたからです。
しかし「千と千尋の神隠し」はその様に明確なカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の芸術とはなっていない。
かなり高度な知性を必要とする。
何故ならば「純粋理性批判」を理解する知性が必要だからです!
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が為す「奇跡」の物語ではなくその「信仰」の受肉の物語なのです!
そこが宮崎駿の制作した恐るべき「最高善の神の試金石」なのです。
「宮崎駿作品愛好家」は、このアニメ映画に奇妙な法則(呪術崇拝)と奇妙な偶像(偶像崇拝)によって成り立つ「世界観(doxa)」の成立を見ます。
オタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)にとってはこの映画は「アニメの理想」である「完全虚構」の「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)の世界観(doxa)の完全成立と見做され高評価されています。
しかしそれは実は「原始的段階に近い劣等な作品」に過ぎないのです。
宮崎駿が描いたのはイマヌエル・カント「純粋理性批判」であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の受肉であります。
それはフロイトの言う「至高の抽象化の極み」と言える。
それは「高尚な作品」であるのです。
※人間モーゼと一神教
ここを理解し「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り処を見出せるか見い出せないかの「最高善の神の試金石」を宮崎駿は創ったのです。
これは「純粋理性批判」の映画であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の受肉を描いた映画なのです。
※イマヌエル・カント「純粋理性批判」第二版序文
8 最大の名シーン【最も啓蒙的な映画の証明】
それは「信仰を入れる場所を確保するために知識を捨てなければならなかった」というイマヌエル・カントの「純粋理性批判」の成立を描いています。
この「千と千尋の神隠し」はこのヘンテコリンな世界観における千尋(千)の「修行経験」と「アリバイ証明」によって形成された「阿弥陀如来崇拝(一向宗徒)」とする見方が可能である。
それは鳥山明「ドラゴンボール」のスーパーサイヤ人と同じだろう。
スーパーサイヤ人はまさに阿弥陀如来崇拝である。
これは末法思想(ディストピア)の在り方であるだろう。
その一方で「千と千尋の神隠し」はそういった世界観の中で「信仰」を回復するストーリーだとする見方が可能である。
それがイマヌエル・カントの言う「知の廃棄」の場所に信仰が入ることで叡智を受肉することであるだろう。
主人公は「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」を見出し信仰を入れる場所を確保する。
ハクと千尋にあった奇跡は「聖愛信仰」と言えるだろう。
ハクと千尋は「信仰」を回復することで「生命」を回復する。
それが永遠の命(パン)を得ることを意味する。
この映画の知的トリックはこのような「最高善の神の試金石」としての黙示(revelation)の存在なのです。
悪魔主義作品とは黙示録であったのです。
千尋(千)は複数の豚の中にいる「お父さん」と「お母さん」を探し当てる行為において「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」としての「神の如く存在するカリスマデマゴーグ」の成立を拒否する。
それを不可能であるとして「当たりがないこと」を皆に示すシーンであります。
この「ヘンテコリンな世界」の世界観(doxa)の崇拝を受け入れることで「神の如く存在するカリスマデマゴーグ」は成立するからです。
あのシーンは「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の完全廃棄をする象徴的シーンとなっています。
それはプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を廃棄して「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を最高(至上)とすることを示しています。
千尋(千)はこの世界観(知)の中でオマージュ(印象操作)とはならずプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を廃棄して「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保しました。
「当たりはない」と示すことが「神の如く存在するカリスマデマゴーグ」の不可能性となりそれが「大当たり」となるのです。
其の意味するところは「世界観(doxa)の崇拝」の正当化としてある「カリスマデマゴーグ(全知全能)」を廃棄し、そして彼女に残ったのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所の確保なのです。
それは「叡智の受肉する場所」です。
それは「最高善の神の選民(Holy Communion)」となったことの証であるのです。
この映画のこのシーンは人が「世界観(doxa)の崇拝(オマージュ(印象操作))」から「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「叡智(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」へ向かうためにあります。
【ここには「お父さん」も「お母さん」もいない】と示すことで「知(doxa)の鵜呑み」と「知(doxa)の廃棄」からの信仰の受肉の違いを明確に示し「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」こそを「最高(至上)」とする姿勢を示したことが「大当たり」とされる「名シーン」であるのです。
これは「大当たり」が「世界観(doxa)の崇拝(オマージュ(印象操作))」ではなく「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」こそを「最高(至上)」とすることがイマーゴ(真善美の回復)を受肉させるということを示しています。
それが「大当たりの正解」であるという「最高に啓蒙的な作品」であったのです。
最高善の神への純愛信仰としてある〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によってあるイマヌエル・カントの「純粋理性批判」をここで見事に示している。
それはソクラテスの「無知の知」でもあるのです。
そういう意味でこの作品は「大傑作」であろう。
要はそこでこのアニメ映画「千と千尋の神隠し」に「世界観(doxa)の崇拝(オマージュ(印象操作))」をみるか「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の入れる場所の「確保」とそこに受肉した「叡智(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」を見るかによってその人が知れてしまうのです。
「世界観(doxa)の崇拝(オマージュ〈印象操作〉)」は全知全能を可能にし、全てを当てる「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」として神の如く存在する。
しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所の確保は「叡智(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」の受肉する場所を確保することで至上命令であり〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉に恭順することを示している。
9「世界観崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の違いは「前衛詐欺(屁理屈)」と「賢者(信仰)」の違いである。
「当ててみせる」のはペテン師の前衛詐欺(屁理屈)です。
自ら「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」からイマーゴ(真善美の回復)を受肉するのが最高である。
この宮崎駿映画は恐ろしい「最高善の神の試金石」の映画なのです。
「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」であるかどうかが問われているのです。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のないイミテーションは知れてしまうのです。
それが偽善者ルシフェルであると知れてしまう。
10【サタンは堕天使ルシフェルである。】
そしてイミテーションの「堕天使ルシフェル」は「偽善者ルシフェル」であるのです。
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