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【聖宮崎駿信仰】【千と千尋の神隠し】「最高善の神の試金石」とは?-イマヌエル・カント「純粋理性批判」による黙示だった。

特集「最高善の神の試金石」

イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。

1「千と千尋の神隠し」は「人間動物」に対する「最高善の神の試金石」である。

世界的映画祭大賞受賞アニメ映画「千と千尋の神隠し」によって齎された「宮崎駿ファン」の間の決定的な「立場の大逆転(黒ミサ)」

アニメ映画「千と千尋の神隠し」は私の周囲における人間関係で「宮崎駿ファン」の「立場の大逆転(黒ミサ)」を引き起こした。
宮崎駿の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を愛し「大ファン」を自称していた私はアニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」やアニメ映画「風の谷のナウシカ」などを特に愛好していた。
そして非常に高く宮崎駿の才能を評価していた。

彼の作品は私にとって「Holy Communion」を信仰し生きていくことが『奇跡』を引き起こすという『現実逃避の産物』でありそれは『神聖な娯楽』となっていました。

私にとって『民衆の阿片』の様に存在していたのです。

それは『忌むべき現実逃避』であったけれどそのような「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が『最高善の神の奇跡』を引き起こすという内容は私にとってイマーゴ(真善美の回復)であったのです。

※ヘーゲル法哲学批判序説(カール・マルクス著)

天国という空想的現実のなかに超人を探し求めて、ただ自分自身の反映だけしか見いださなかった人間は、自分の真の現実性を探求する場合に、ただ自分自身の仮象だけを、ただ非人間だけを見出そうなどという気にはもはやなれないであろう。

この国家、この社会的結合が倒錯した世界であるがゆえに、倒錯した世界意識である宗教を生み出すのである。宗教は、この世界の一般的理論であり、その百科全書的要綱であり、それの通俗的なかたちをとった論理学であり、それの唯心論的な、体面にかかわる問題〔point-d'honneur〕であり、それの熱狂であり。それの道徳的承認であり,それの儀式ばった補完であり、それの慰めと正当化との一般的根拠である。

宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。
民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるように要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって。宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる。

それゆえ、真理の彼岸が消え失せた以上、さらに此岸の真理を確立することが、歴史の課題である。人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己阻害の仮面をはぐことが、何よりまず、歴史に奉仕する哲学の課題である。こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する。

岩波書店「ヘーゲル法哲学批判序説」

しかしこのアニメ映画「千と千尋の神隠し」は複数の世界的映画祭で大賞を受賞するなどして今まで宮崎駿ファンを公言していなかった私の周囲の人間関係を構成する人たちが「主張」を始めたのです。

その「主張」の内容と評価の是非はさて置き今まで私が周囲の人間関係の中で宮崎駿ファンの「第一人者」であったことを忘却したかのように自分自身こそが今までも宮崎駿を高く評価していてそして真に理解していたと主張し始めたのです。

それが私の周囲の人間関係で起こった「立場の大逆転(黒ミサ)」でありました。

複数の国際映画賞で大賞を受賞した宮崎駿監督のアニメ映画作品

宮崎の友人である映画監督ジョン・ラセターの尽力によって北米で公開され、第75回アカデミー賞ではアカデミー長編アニメ映画賞を受賞した[13][* 2]。2016年のイギリスBBC主催の投票では、世界の177人の批評家が「21世紀の偉大な映画ベスト100」の第4位に選出した[14]。2017年にはニューヨークタイムズ選定21世紀最高の外国語映画ランキングで2位に選ばれた[15]

wikipedia

2「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」による呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)の世界観(doxa)

フロイトの言う「至高の抽象化の高み」と「原始的段階に近い」の「聖戦」と「黙示」

ただ言えることはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)はオマージュ(印象操作)を形成する条件となる。

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する「敵対感覚(原罪)」を形成するプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は政治的宣伝コンテンツ作品を制作する。

それによって「政治的エリート」がオマージュ(印象操作)として誕生する。

例えばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の芸術を制作したとする。
しかしそれは独自性(著作権)の存在とはなり難い。
何故ならばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の信仰作品でありカトリックとして「最高善の神の意志」の導きによるものだからです。

だからその人又はそのグループの独自性(著作権)とはなり得ないのです。

その一方でプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に「敵対感覚(原罪)」を形成するために制作された政治的宣伝コンテンツ作品でありそれは「最高善の神の選民(Holy Communion)」を全弾圧した非常に独特な世界観(doxa)となる。
そしてオマージュ(印象操作)は世界を支配下に置くことになる。

※しかしこのようなdoxaの作品は独特ではあるが芸術作品とは絶対になりえない。doxaからイノセントであるものが芸術であるからです。それはバプテスマと言えます。芸術作品とは「神の著作権」であり、一般に言われる「人の著作権」は印象操作と詐欺行為の産物であると言えるでしょう。それはギルティの産物であり「逆切れ」の犯罪者となるのです。

しかし宮崎駿は「最高善の神の試金石」の映画を制作することでカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を解する「最高善の神の選民(Holy Communion)」と「プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のオマージュ(印象操作)」を黙示することを試みたと見做せます。

「立場の大逆転(黒ミサ)」の意味

この大逆転(黒ミサ)の意味が大きいのは、それが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の違いを明確にしてしまったことです。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「イマーゴ(真善美の回復)」としての「芸術作品」を成立させる。

しかし「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は、その「神の如く存在するカリスマデマゴーグ」の扇動によって成立する「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)の世界観(doxa)」となる。
しかしそういった「神の如く存在するカリスマ性のデマゴーグ」は「前衛詐欺(屁理屈)」である。

例えば宮崎駿のカリスマ性は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によっている。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」からの「イマーゴ(真善美の回復)」の具現化が彼の「芸術作品」だからです。

それに対して「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「神の如く存在するカリスマデマゴーグ」は扇動によって成立する擬物の世界観(doxa)であり「前衛詐欺(屁理屈)」の統治である。

宮崎駿作品の在り方

彼の作品はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によっている。
それは芸術制作を意味している。

しかしそういった世界(最高善の神の選民(Holy Communion))を全弾圧する世界観(doxa)はそのような芸術(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))に対して「敵対感覚(原罪)」を形成する政治的宣伝コンテンツ(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))を制作する。
世界観(doxa)というプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)はその世界の政治的指導者としてオマージュ(印象操作)をそこに据えるのです。
それがカリスマの存在です。

しかしこのアニメ映画「千と千尋の神隠し」は宮崎駿によって独特な世界観(知)が描かれることになった。
それはなんとも言いようがない世界観(知)でありました。
しかしこの世界は一見ではたいへん「労働を賛美する世界」であり「政治的宣伝コンテンツ作品」であるかに見えます。
そしてそこを非常に高評価し「国民は斯くあれ」と言い出す輩も多々いたことも皆さんご存じの通りです。
それだけを見ればこの映画は宮崎駿が制作したプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)であるだろう。
そしてそれだけを見る人はきっとオマージュ(印象操作)としてだけ振る舞うだろう。

そうなのです。

ここだけ見れば宮崎駿のアニメ映画「千と千尋の神隠し」は政治的宣伝コンテンツだと見做せるでしょう。

ここで疑問が起こるのです。

宮崎駿はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の芸術家であるか?

それとも宮崎駿はプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の政治的宣伝コンテンツ作品制作者であるか?

この映画に芸術はあっただろうか?

要はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が存在しているのだろうか?

しかしこのアニメ映画「千と千尋の神隠し」は「最高善の神の試金石」として用意されたものであったのです。
そしてこのアニメ映画はイマヌエル・カントの「純粋理性批判 第二版序文」の「信仰を入れる場所を確保するために知識を捨てなければならなかった」を描くという最高に近いカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であったのです!
これは宮崎駿の大傑作であったのです。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によってイマヌエル・カント「純粋理性批判」を描いた傑作であるからです。

しかしプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)だけしか見えないオマージュ(印象操作)にはこのアニメ映画は政治的宣伝コンテンツ作品にしか見えないのです。
その分かれ目が「最高善の神の試金石(千と千尋の神隠し)」によって為されるのです!

さぎ【詐欺】
他人をだまして錯誤に陥れる違法な行為をいう。他人をだますというのは,真実でないことを真実であるとして伝える場合のほかに,真実をあえて隠す場合も含む。もっとも,後者の場合にはそれが社会観念上違法とされるものでなければならない。(1)民法上の詐欺 詐欺によって意思表示した者は,これを取消すことができる。ただし,その取消しは⇨善意の第三者に対抗することはできない(96条1項,3項)。なお詐欺によって生じた損害は,不法行為として詐欺者に損害賠償させることができる。(2)刑法上の詐欺 人をだまして財物を取得したり,財産的利益を得たりした者(だました者以外の他人が取得する場合も含む)は,詐欺罪で罰せられる(246条1項,2項)。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

さぎ【詐欺】
(a) fraud; 〔金などをだまし取ること〕swindling, a swindle; 〔他人を装って〕(an) imposture
◾詐欺を働く
commit fraud/practice deception⦅on a person⦆
◾彼は詐欺で大金を巻き上げた
He obtained a large sum of money by fraud./He swindled a great amount of money.
◾彼女は結婚詐欺にかかって5万ドルをだまし取られた
She was swindled [⦅口⦆conned] out of 50,000 dollars by a man who said he wanted to marry her.
◗詐欺師
a swindler; 〔取り込み詐欺師〕a con (confidence) man; 〔他人を詐称する人〕an impostor

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

3「前衛詐欺(屁理屈)」に対し「純愛信仰」の解説

キリスト教においての純愛信仰

キリスト教では⇨パウロが信仰の概念の形成に大きな役割を果し,信仰を⇨希望や⇨愛とともに神に対する3つの徳の一つとして位置づけた。彼によれば,「信仰とは望んでいる事柄を確信することであり,まだ見ぬものを確認することである」。スコラ神学では信仰の概念がさらに精密化され,トマス・アクィナスは信仰を「神の恩恵により促された意志の働きによって神の真理へ同意する知性的行為」と定義した。プロテスタントでは M.ルターが信仰における無条件的信頼性の優位を強調したが,以後プロテスタントの正統主義においては再び主知主義的色彩が強められた(→義認)。今日,特に弁証法神学者の間では再び,無条件的信頼という宗教改革者の精神に立返る努力がなされている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

4「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは「最高善の神への純愛信仰」である。

最高善とは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉であり、それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉させる。
最も基本的な「知」の在り方は「無知を知」であり、「知の廃棄」から「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を受肉することであり得る「最高善の神の知」である。
それが人間の「知性(悟性)」であり、「理性」であり、最後に「学者」となる。
〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉の科学的思考がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉させて人はイマーゴ(真善美の回復)となるのです。
それがイマヌエル・カントの「純粋理性批判」の核心である。
それは「叡智」でありそれは「芸術」として「学問」として具現化される。
そして「最高善の神との関係」における「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の在り方がイマーゴ(真善美の回復)となっているのです。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)とはイマーゴ(真善美の回復)として存在するのです!

※カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の体験から信仰が受肉するシーン

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のメッセージとコミュニケーション
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

5 宮崎駿信仰(イマーゴ〈真善美の回復〉)と宮崎駿崇拝(オマージュ〈印象操作〉)の二分化による「revelation(黙示)」の可能性

宮崎駿の作品はイマーゴ(真善美の回復)を具現化した芸術と言えるが宮崎駿の評価はこのアニメ映画「千と千尋の神隠し」によって逆にその「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧する「オタクのオマージュ(印象操作)」の正当性を生み出す。

それによって「オタクのオマージュ(印象操作)」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解しているアニメファン(最高善の神の選民(Holy Communion))との間において同じ『宮崎駿作品ファン』を自認していながら違いが明確に生まれてしまったのです。

宮崎駿の意図はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を完全弾圧する世界観(知)の構築をすることだった。
それはプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)としての「オタクのオマージュ(印象操作)」を容認した世界観(知)の構築でありそれが世界的に高評価されたと多くの人に見做された。

しかしそれは「知識の廃棄」の在り方を描くために廃棄されることが前提とされた「知識(プロテスタントデマゴーグ〈醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間〉)」だったのです。
それは逆にそのような世界観(知)の完全廃棄を容易にしているのです。
完全廃棄された場所に信仰を入れる場所が確保されます。

完全な「知的トリック」だったのです。

そのような「知識(プロテスタントデマゴーグ〈醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間〉)」は「doxa」と言えるだろう。
オマージュ(印象操作)は「ソクラテスの産婆術」の如く宮崎駿の「千と千尋の神隠し」に仕留められたのです。

さんばじゅつ【産婆術】
maieutikē
ソクラテスの対話の方法には,消極的側面であるソクラテス的反語エイロネイア eirōneia(→アイロニー)と,積極的側面としての産婆術が知られる。前者は対話の相手からロゴス(論説)を引出し,無知の自覚,⇨アポリアへと誘い込むソクラテス一流の無知を装う態度であり,後者は相手の提出した論説や概念規定を,質問を重ねることにより吟味しつつ当人の意識していなかった新しい思想を産み出させる問答法である。彼はみずから知恵を産む力はないが,他の人々がそれを産むのを助けてその知恵の真偽を識別することはできるとして,自己の活動を母ファイナレテの仕事であった産婆になぞらえて,これを産婆術と呼んだ(プラトン『テアイテトス』)。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

むち‐の‐ち【無知の知】
自分の無知を自覚することが人間に可能な最高の知であるという、プラトン「ソクラテスの弁明」が描くソクラテスの根本的考え。無知の知に至ろうとする探求が知を愛することとしての哲学とされる。→問答法。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

むちのち【無知の知】
Bewusstsein des Nichtwissens
⇨ソクラテス哲学を特徴づける有名な言葉。哲学者(愛知者)という意味でのギリシア語 philosophosは,ピタゴラス,ソクラテス的意味では,神だけが知者 sophosであるとの立場から,知者でないがゆえに知 sophiaを愛求する有限的存在としての人間の本質規定であった。したがって philosophiaは,いわゆる賢者や知恵の本性が神と比すれば無にも等しいものであることを明らかに自覚することに始る。本来的な知のイデーのもとにおける自己の無知の自覚が無知の知にほかならず,ソクラテスの優越は,だれよりも深くこのことにおいてすぐれていたことによる(『ソクラテスの弁明』)。しかも無知の知は,消極的側面にとどまらず,かえって迷妄をはらし真実の知への扉を開くのであり,かかる自覚を自己の本質的契機としてこそ,「能うかぎり神に似ること」が philosophosの目標として措定されることになる。それゆえにまた教育者としてのソクラテスは,人々にこの自覚を与え本来的な知のイデーヘ視座を転換するように努めるのであり,そのことはプラトンの対話篇に印象的に示されている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

6 そもそもアニメ映画「千と千尋の神隠し」の何が良いのか?

そこで問われるのが「千と千尋の神隠し」の一体何が良かったのかという宮崎駿ファンのそれぞれの理由の差異によって「宮崎駿ファン」の「質」と「量」の違いが明確になります。

その違いは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を解する存在と「プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のオマージュ(印象操作)」を形成する存在の間にあります。

touch・stone /ˈtʌtʃstəʊn; NAmE ‐stoʊn/
noun [usually sing.] ~ (of/for sth) (formal)
something that provides a standard against which other things are compared and/or judged: 〓

『Oxford Advanced Learner’s Dictionary, Eighth Edition』 Oxford University Press

7『最高善の神の試金石』 黙示(revelation)

「最高善の神の試金石」として言えるのはこのアニメ作品で宮崎駿が描いている「ヘンテコリンな世界観(知)」が、「奇妙な法則(呪術崇拝)」と「奇妙な偶像(偶像崇拝)」によって成り立っているということです。

しかし宮崎駿の創ったこのフロイトの言う「原始的段階に近い劣等な世界観(知)」は『廃棄を前提』にして描かれていて、結局はその「知(doxa)」を廃棄した場所に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所の確保が出来ることを示しています。
それは高尚なイマヌエル・カント「純粋理性批判 第二版序文」がテーマになっており最後のシーンでそれは明らかになります。

私はアニメ映画「風の谷のナウシカ」を愛しているけれどその「世界観(知)」は非常に独特な終末的であるけれど解りやすかった。
アニメ映画「風の谷のナウシカ」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の純愛信仰のナウシカが主人公であり彼女が「奇跡」を起こすストーリーであります。

しかしアニメ映画「千と千尋の神隠し」のキャラクターと「世界観(知)」は解りづらく歪で醜く異様に思えました。
それは主人公の千尋(千)は映画の当初では「信仰を入れる場所を確保できずにいるストレイシープ」であった故に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の入れる場所を確保する存在ではなかった。

それがこの「ヘンテコリンな世界観(知)」で生活していくうちにその世界観(知)の廃棄が彼女の純愛信仰の入れる場所の確保となり彼女は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を受肉するのです。

それがこの映画の最後の「大当たり!」の示すところであるのです。

プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)からオマージュ(印象操作)に向かいどうしようもない自分自身の絶望的な状況の中でストレイシープであった「千尋(千)」はこの世界観(知)を「知識(doxa)」として見出しそれを「廃棄」することで「信仰」を入れる場所を確保するストーリーとなっています。

私は宮崎駿作品としてはアニメ映画「千と千尋の神隠し」を愛好はしていません。
それはアニメ映画「ルパン三世カリオストロの城」やアニメ映画「風の谷のナウシカ」を愛しているからです。
それはその作品が明確なカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の芸術となっていたからです。

しかし「千と千尋の神隠し」はその様に明確なカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の芸術とはなっていない。
かなり高度な知性を必要とする。
何故ならば「純粋理性批判」を理解する知性が必要だからです!
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が為す「奇跡」の物語ではなくその「信仰」の受肉の物語なのです!

そこが宮崎駿の制作した恐るべき「最高善の神の試金石」なのです。

「宮崎駿作品愛好家」は、このアニメ映画に奇妙な法則(呪術崇拝)と奇妙な偶像(偶像崇拝)によって成り立つ「世界観(doxa)」の成立を見ます。
オタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)にとってはこの映画は「アニメの理想」である「完全虚構」の「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)の世界観(doxa)の完全成立と見做され高評価されています。
しかしそれは実は「原始的段階に近い劣等な作品」に過ぎないのです。

宮崎駿が描いたのはイマヌエル・カント「純粋理性批判」であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の受肉であります。
それはフロイトの言う「至高の抽象化の極み」と言える。
それは「高尚な作品」であるのです。

※人間モーゼと一神教

フロイト「人間モーゼと一神教」
一神教 「至高の抽象化の高み」
多神教 「原始的段階に近い」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

ここを理解し「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り処を見出せるか見い出せないかの「最高善の神の試金石」を宮崎駿は創ったのです。
これは「純粋理性批判」の映画であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の受肉を描いた映画なのです。

※イマヌエル・カント「純粋理性批判」第二版序文

純粋理性批判 第二版序文
「だから私は、信に場をえさせるために知を廃棄しなければならなかった。」
宮崎駿には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」があり最高峰の芸術家(美術家)である。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

8 最大の名シーン【最も啓蒙的な映画の証明】

それは「信仰を入れる場所を確保するために知識を捨てなければならなかった」というイマヌエル・カントの「純粋理性批判」の成立を描いています。

この「千と千尋の神隠し」はこのヘンテコリンな世界観における千尋(千)の「修行経験」と「アリバイ証明」によって形成された「阿弥陀如来崇拝(一向宗徒)」とする見方が可能である。
それは鳥山明「ドラゴンボール」のスーパーサイヤ人と同じだろう。
スーパーサイヤ人はまさに阿弥陀如来崇拝である。
これは末法思想(ディストピア)の在り方であるだろう。

その一方で「千と千尋の神隠し」はそういった世界観の中で「信仰」を回復するストーリーだとする見方が可能である。
それがイマヌエル・カントの言う「知の廃棄」の場所に信仰が入ることで叡智を受肉することであるだろう。
主人公は「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」を見出し信仰を入れる場所を確保する。
ハクと千尋にあった奇跡は「聖愛信仰」と言えるだろう。
ハクと千尋は「信仰」を回復することで「生命」を回復する。
それが永遠の命(パン)を得ることを意味する。
この映画の知的トリックはこのような「最高善の神の試金石」としての黙示(revelation)の存在なのです。
悪魔主義作品とは黙示録であったのです。

あくましゅぎ【悪魔主義】
diabolism
すべてを破壊し否定する悪魔的精神により,人間の暗黒面を追求,その表現に美を見出そうとする文学上の傾向。世紀末の⇨デカダンスはその顕著な実例で,ポー,ボードレール,ワイルドらがその代表者。しかしワイルドの『⇨深淵より』にはキリストへの訴えがあり,ボードレールの『⇨悪の華』はキリスト教への裏面からの接近ともみられ,ポーの究極目標が「天上世界」であったとすれば,悪魔主義は「神の死んだ」世界における求道精神の逆説的表明であるともいえる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
坊をつれもどして来ます そのかわり千と両親を人間の世界へもどしてやって下さい。
それでお前はどうなるんだい
この中からお前のお父さんとお母さんを見つけな。
チャンスは一回だ。ぴたりとあてたらお前達は自由だよ
ここには お父さんも お母さんも いないもん
大当りー
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

千尋(千)は複数の豚の中にいる「お父さん」と「お母さん」を探し当てる行為において「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」としての「神の如く存在するカリスマデマゴーグ」の成立を拒否する。
それを不可能であるとして「当たりがないこと」を皆に示すシーンであります。

この「ヘンテコリンな世界」の世界観(doxa)の崇拝を受け入れることで「神の如く存在するカリスマデマゴーグ」は成立するからです。

あのシーンは「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の完全廃棄をする象徴的シーンとなっています。

それはプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を廃棄して「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を最高(至上)とすることを示しています。

千尋(千)はこの世界観(知)の中でオマージュ(印象操作)とはならずプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を廃棄して「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保しました。

「当たりはない」と示すことが「神の如く存在するカリスマデマゴーグ」の不可能性となりそれが「大当たり」となるのです。

其の意味するところは「世界観(doxa)の崇拝」の正当化としてある「カリスマデマゴーグ(全知全能)」を廃棄し、そして彼女に残ったのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所の確保なのです。
それは「叡智の受肉する場所」です。
それは「最高善の神の選民(Holy Communion)」となったことの証であるのです。

この映画のこのシーンは人が「世界観(doxa)の崇拝(オマージュ(印象操作))」から「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「叡智(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」へ向かうためにあります。

【ここには「お父さん」も「お母さん」もいない】と示すことで「知(doxa)の鵜呑み」と「知(doxa)の廃棄」からの信仰の受肉の違いを明確に示し「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」こそを「最高(至上)」とする姿勢を示したことが「大当たり」とされる「名シーン」であるのです。

これは「大当たり」が「世界観(doxa)の崇拝(オマージュ(印象操作))」ではなく「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」こそを「最高(至上)」とすることがイマーゴ(真善美の回復)を受肉させるということを示しています。
それが「大当たりの正解」であるという「最高に啓蒙的な作品」であったのです。

最高善の神への純愛信仰としてある〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉によってあるイマヌエル・カントの「純粋理性批判」をここで見事に示している。
それはソクラテスの「無知の知」でもあるのです。

そういう意味でこの作品は「大傑作」であろう。

要はそこでこのアニメ映画「千と千尋の神隠し」に「世界観(doxa)の崇拝(オマージュ(印象操作))」をみるか「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の入れる場所の「確保」とそこに受肉した「叡智(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」を見るかによってその人が知れてしまうのです。

「世界観(doxa)の崇拝(オマージュ〈印象操作〉)」は全知全能を可能にし、全てを当てる「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」として神の如く存在する。

ハクは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としての「龍の象徴」である。

しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所の確保は「叡智(カトリックロゴス感覚(Holy Communion))」の受肉する場所を確保することで至上命令であり〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉に恭順することを示している。

9「世界観崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の違いは「前衛詐欺(屁理屈)」と「賢者(信仰)」の違いである。

「当ててみせる」のはペテン師の前衛詐欺(屁理屈)です。

ハクとの永遠の別れである。
しかしハクは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」として千尋(千)の中に永遠の命となったのです。

自ら「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」からイマーゴ(真善美の回復)を受肉するのが最高である。

美しい、善い心とは「知(doxa)の廃棄」「無知の知」である。
「最高善の神の試金石」はジブリ(時の徴)
アニメ映画「千と千尋の神隠し」はルカによる福音書「時の徴」のジブリ(熱風)を示した宮崎駿のジブリを象徴(符号一致偶像)する作品である。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

この宮崎駿映画は恐ろしい「最高善の神の試金石」の映画なのです。
「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」であるかどうかが問われているのです。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のないイミテーションは知れてしまうのです。
それが偽善者ルシフェルであると知れてしまう。

10【サタンは堕天使ルシフェルである。】

そしてイミテーションの「堕天使ルシフェル」は「偽善者ルシフェル」であるのです。

もほう【模倣】
imitation
一般には人の動作などをまねることの意であるが,心理学では,ある反応がその刺激の性質に類似しようとする傾向をいう。また社会学では,G.⇨タルドが社会現象を人の心の関係とみて,この関係を広義の模倣ととらえ,「模倣の法則」と名づけて社会学の基礎とした。哲学の用語としては,⇨ミメーシスと同義に用いられ,美学上の用語としては,芸術活動の起源をみる場合(アリストテレスのミメーシス論),あるいは芸術の本質は実在の模倣であるとする場合(リアリズム)などにおいて語られる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ミメーシス
mimēsis
模倣,再現の意。ギリシア哲学,特にプラトンやアリストテレス哲学の重要な概念。形而上学的には⇨パラデイグマ paradeigmaとしてのもろもろのイデアとこの世界の事象,事物の関係を説明する語。たとえば美しいものは美のイデアを分有するかぎりで美しいものたりうるが,分有とは換言すれば後者が範型としてのイデアを模倣することである。美学的には,芸術の本質規定を表わす語で,芸術は理想的典型ないしイデアの模倣であるとされる。一方アリストテレスにおいてはミメーシスは積極的な芸術の本質規定であり,模倣原理はプラトンより緩和されて蓋然性が真理基準として立てられ,ミメーシスの対象としてのさまざまな典型の追究の範囲は拡大されている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

im・i・ta・tion [ìmətéiʃən]〓
―n.
1 模倣したもの,模造品;偽造品,偽物;模写.
2 まね,模倣;物まね,人まね:〓
3 (文学作品などで)模倣作.
4 〖動物〗 (チンパンジーがヒトをまねたりする)模倣行動.
5 〖心理〗 模倣:他人の行動や態度を意識的または無意識的にまねること.
6 〖社会〗 (他の集団や個人の行動・思想の)模倣.
7 〖芸術〗
(1)(アリストテレス美学で)それがあるべき現実性を人間の技術で再現すること.
(2)(芸術・文学における)現実再現.
8 〖音楽〗 模倣:一楽句を最初と異なる音度や調で,あるいは声部を変えて反復すること.
―adj.
1 模造の,人造の:〓
2 〖宝石〗 人造宝石の. cf. ASSEMBLED 2,SYNTHETIC 7.
◊[文学・著作物]The Imitation of Christ『キリストに倣(なら)いて』Thomas à Kempis 作とされる15世紀の信仰の書;原題は De Imitatione Christi.
[1400年以前. 中期英語<ラテン語 imitātiō.⇀IMITATE]
im・i・ta・tion・al
―adj.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

おんがく【音楽】
music
ムシカ,ミュージックなどの言葉はギリシア神話の9人の女神(ムーサ)たちが行う活動(言語,詩,音楽,舞踊などを統御する)を意味するギリシア語のムシケ mousikēに由来する。東洋および日本における音楽という言葉の定義は時代によってさまざまである。ヨーロッパにおいては,古代,中世では音楽を自由7科 septem artes liberalesのなかの数に関する4科の一つとして位置づけ,学や知識あるいは技術としてとらえたが,今日では音楽を実践にかかわりをもつものとして定義するほうが支配的である。すなわち,音楽は音(主として楽音,現代のミュジック・コンクレートや電子音楽では必ずしもそうではない)を素材とし,その組合せによって成立する芸術であり,その素材の性質上,音楽は絵画,彫刻,建築などの空間芸術(造形芸術)とは異なり時間的な性格を有する。したがって音楽は実際に音として鳴り響き,それが聞かれるときに初めて成立するものであり,今日ではそれは作曲,演奏,鑑賞享受という形で行われている。作曲家によって作曲されたものを演奏家が演奏する形態から,再現芸術ともいわれる。なお音楽の起源については,J.-J.ルソーの言語起源論,ダーウィンの進化論的起源論など多くの仮説が出されている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

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