見出し画像

【聖宮崎駿信仰】宮崎駿がジブリ(熱風)と名付けた秘密の動機とは新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴」を示す黙示だった!


『ジブリ』の示す「黙示」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
「時の徴」に出てくる『熱風になるぞ』を示す
「ジブリ(軍用偵察機)」は「デマゴーグの譬え」であり「宮崎駿のイマーゴ(真善美の回復)」はこの新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴」であるだろう。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
マタイによる福音書
「空の徴、時の徴」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ヨハネによる福音書
最高善の神のことば
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。

アルファとオメガ
「すべての始まりと終わり」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
アルファとオメガ
「すべての始まりと終わり」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
アルファとオメガ
「すべての始まりと終わり」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
2023年3月27日(月)撮影
「時の徴」
ジブリの黙示

村上春樹の小説をご存じの方は多くおられると思う。
彼の小説は「難解」で「奥深い」と言われるが実際は「思わせ振り」の詐欺行為にすぎない。
結局彼の小説は最後までその詐欺行為に終始し完全犯罪で「騙し抜くこと」であり得る。
それは特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)の「完全犯罪」を目指すことと同義でありそのための愚民政策の作品となる。
村上春樹の作品を読んでも得るものは何もない。
当然のことだ。
人を騙し抜くことである愚民政策が人に叡智を齎す筈がない。
村上春樹の小説には「アルファとオメガ」がない。
特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)の完全犯罪で「騙し抜くこと」を小説作品とした詐欺作品だからだ。
それを「村上春樹ワールド」と称し、恰も一個の「価値ある世界観」として宣伝したがその実態は詐欺其の物であった。
そしてそれは庵野秀明の作品にも言えることだ。
「新世紀エヴァンゲリオン」は特に最後は意味不明な映像表現に終始し完全に庵野秀明に煙に巻かれた感が強い。
しかしそれは村上春樹ワールドと同様で〈「アルファとオメガ」のない「完全犯罪」〉の形成となる。
そこに完全犯罪で「騙し抜くこと」を崇拝する傲慢と欲望の人物の実存を窺い知ることができるだろう。
完全犯罪で「騙し抜くこと」を至上とした作品が「世界」から高評価されたという情報は「印象操作」のためにあったのではないだろうか?
これは日本のマスメディアの宣伝活動がデマゴーグを使用して扇動している。
それは「ジブリ(熱風)」である。
「ヒポクラテスの誓い」を反故にして「全て反対になった名医」は最悪である。
それは名ばかりの名医でありサタンの下僕である。
宮崎駿のイマーゴ(真善美の回復)は新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴」であり『黙示録』であるだろう。

※宮崎駿の予言通り「アニメ界のジブリ(熱風)」は庵野秀明や新海誠によって起こった。しかし彼らはデマゴーグの存在でしかない。宮崎駿の『ジブリ』は新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴」にある黙示録を示しているのだ。

カント実践理性批判
「きみの人格やいっさいの他者たちの人格のうちにある人間性を、つねに同時に目的として取りあつかい、けっしてたんに手段として取りあつかわないように行為せよ」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
カント実践理性批判
「自分の人格のうちにも他の誰もの人格のうちにもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段としてだけ必要としないように、行為しなさい。」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

宮崎駿のイマーゴ(真善美の回復)が『ジブリ』という名称に込められている。

宮崎駿が名付けた〈ジブリ〉の名の由来-「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が刻む〈聖痕〉とは新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴」のことであり〈最高善の神の歴史〉としての〈最高善の神の聖書〉を示している。
(ジブリ=『熱風になるぞ』)

『ジブリ』という名前の由来は?(一般に公表されている由来)

ジブリの綴りは「GHIBLI」、サハラ砂漠に吹く熱風を意味するイタリア語です。第2次世界大戦中に使用されたイタリアの軍用偵察機の名前でもあり、飛行機マニアの宮崎監督が命名しました。日本のアニメーション界に熱風を起こそうという思いを込めたネーミングだそうです。
なお、本来イタリア語では「ジブリ」ではなく「ギブリ」と発音するのが正しいそうです。

www.ghibli.jp

ghib・li [ɡíbli]
―n. ギブレ:北アフリカの砂漠で吹く砂塵(さじん)を含んだ熱風.
[<アラビア語方言 gibli 南風]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

ギーブリ
ghibli
リビアのキレナイカ地方の⇨局地風。冬から春にかけて吹く砂と塵を多く含んだ風。風速が毎秒 15mに達する。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ghibli /ʼgɪbli/
◆noun a hot, dry southerly wind of North Africa.
―ORIGIN
C19: from Arab. ḳiblī ‘southern’.

『The Concise Oxford English Dictionary, Eleventh Edition』 Oxford University Press
「時の徴」
「熱風になるぞ」
「ジブリ」
  • 「洗礼」

  • 「分裂」は最高善の神の愛徳を受ける「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」への導きとなる。

  • 宮崎駿が「熱風になるぞ(ジブリ)」で指し示すことは「時の徴」の「黙示」のことであり「(今の)この時を吟味するすべを知ること」の重大さのことである。

新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴」

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」により刻まれた〈聖痕の徴の受肉〉は「時の徴」であり「最高善の神の歴史(聖書)」である。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)を貶め弾圧し敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を扇動するカリスマ個人崇拝とそのデマゴーグへの崇拝」と「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を純愛信仰する〈唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)〉の受肉する〈聖痕の徴の受肉(ジブリ)〉の信仰」

※カトリックロゴス感覚(Holy Communion)は「聖痕の徴の受肉」を刻み、そして見出す。
それは「時の徴」であり「聖痕の徴の受肉」が刻まれた「最高善の神の歴史(聖書)」の存在を示している。
そしてそういった「聖痕の徴の受肉」を見出すカトリックロゴス感覚(Holy Communion)は「無知の知」としてあり「聖痕の徴」を刻みそして見出すのが「最高善の神の学問(神学)」である。
宮崎駿の芸術の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「ジブリ」にある。
それは新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴」を示していると私は見做している。
ジブリの由来がイタリアの軍用偵察機であるという情報は宮崎駿の「韜晦」から来ているのだろう。
そして宮崎駿の芸術信仰は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が〈聖痕の徴〉を刻み見出すことであり得る。
「芸術作品」とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が〈聖痕の徴〉を刻み見出すことを持って成立する。
だからそういった「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を「自分感覚」とするものは〈聖痕の徴〉を受肉する「時の徴」の芸術家(ジブリ)というのだ。

※宮崎駿はジブリ(軍用偵察機)を新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴」に於ける『デマゴーグの喩え』として象徴的に使用することでイマーゴ(真善美の回復)を明確化している。
軍用偵察機の名前が「日本のアニメーション界に熱風を起こそうという思いを込めたネーミング」というのは「明らかな嘘」だがある意味正鵠を射ている。
これは宮崎駿一流の韜晦であるだろうと思います。

とう‐かい【韜晦】 タウクワイ
旧唐書(宣宗紀)自分の才能・地位などをつつみかくすこと。形跡をくらましかくすこと。「自己—」
『広辞苑 第六版』 岩波書店

『広辞苑 第六版』 岩波書店

韜▵晦
(トウカイ)
①才知・学問などをつつみくらまして外に現さないこと。韜蔵。
②雲・雨などのために薄暗いさま。
『新漢語林』 大修館書店

『新漢語林』 大修館書店
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(聖痕の徴の受肉)」writer&photo(2008/6/30)
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

オタクとは敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の賛美と扇動によって劣等感覚を転倒させそれを誇る「傲慢感覚」のことである。

近年オタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)と称する人たちが世界で跋扈している。
其の日本代表は様々あるだろう。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」である宮崎駿の弟子を自称する庵野秀明や其のグループは特に有名であり東京オリンピックで公式ポスターに採用された漫画家(浦沢直樹など)もそういった類であるだろう。
そして現代の日本サブカルチャーの翼賛と扇動の旗手である「村上隆・草間彌生」もその評価と裏腹に「時の徴」の芸術家ではなく、「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧する敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の世界的カリスマ(劣等感覚を転倒させそれを誇る「傲慢感覚」の芸術家)なのだ。
それはネオ・ナチズムの正体である。

例えば「思わせ振り」を芸術演出(最高善の神演出)と言うだろうか?

「謎が謎を呼ぶ」と称する演出家である浦沢直樹の「MONSTER」やそれと同様の演出方法である庵野秀明の「新世紀エヴァンゲリオン」と「ふしぎの海のナディア」は「思わせ振り」と「仄めかし」の連続で実際の中身は空っぽであった。
最後の謎解きは「屁理屈(前衛詐欺)」である。
視聴者を馬鹿にした話だった。
それは「神演出」であるが「宣伝効果」におけるものでしかない。
視聴者を最後まで惹きつけて上手くコントロールしている。
それは事実だと思う。
しかしそれは商売の中でも誠意のない手法であって詐欺的手法と罵られても仕方がないだろう。

それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が受肉する「時の徴」の「聖痕の徵」が皆無であるけれどその代わりに過去の作品の「オマージュ(印象操作)」と称して有名場面の引用を多用した作風が「人の聖痕の徴(人のキャリア形成)」と見做された。
しかしそこには「最高善の神の聖痕の徴(唯一性のペルソナの確立〈信仰から形成されるオリジナル〉)」を至上とする「イマーゴ(真善美の回復)」がない。
当然と言えば当然である。
それは村上春樹の手法と同じであって完全犯罪で「騙し抜くこと」は愚民政策により叡智を与えないことが常套手段であるからだ。
相手が馬鹿の方が騙し易いのは真実である。
これは「最高善の神の聖痕の徴(唯一性のペルソナの確立〈信仰から形成されるオリジナル〉)を貶め弾圧して「人の聖痕の徴(人のキャリア形成)」を賛美し扇動するオタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)のオマージュ(印象操作)の手法である。
そこには何の芸術でもない!
それはレトリック(醜悪を美化する幇間)の役回りでしかないのだ。
最高善の神の聖痕とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によっている。
では「人の聖痕の徴(人のキャリア形成)」とは何だろうか?
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)ではなく、「人の聖痕の徴(人のキャリア形成)」は「グッドアイデア」で描写されたシーンにすぎないのだ。
それは私が指摘するところである「写生文(イマーゴ)」と「描写態(オマージュ)」の違いである。
「最高善の神の聖痕の徴(唯一性のペルソナの確立〈信仰から形成されるオリジナル〉)」であるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)は「写生文(イマーゴ)」を受肉し、「人の聖痕の徴(人のキャリア形成)」は「レトリック」として「描写態(オマージュ)」による「印象操作」の存在にすぎない。
その存在は「人の記憶(人のキャリア形成)」として宣伝された「印象的なシーン(オマージュ)」の産物でしかない。
そこにはイマーゴ(真善美の回復)は存在せず新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴」の譬えの通りであろうからだ。
デマゴーグは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧する印象操作(オマージュ)の産物として高評価される。
「人の聖痕の徴(人のキャリア形成)」には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はなく「最高善の神の聖痕の徴(唯一性のペルソナの確立〈信仰から形成されるオリジナル〉)」はない。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」である「時の徴」のイマーゴ(真善美の回復)を貶めることでそれを完全弾圧しそれによってオマージュ(印象操作)を賛美する作品となる。
オマージュ(印象操作)とはオタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の定義である。
サタン崇拝の在り方となる。
幾らでも捏造可能な「人のキャリア形成」はオタクのオマージュ(印象操作)ということなのだ。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」による「時の徴」を刻む芸術(聖痕の徴の受肉)の存在を貶め弾圧し「敵対感覚(原罪)」によって「エンターテインメントショー(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を形成するオタクのオマージュ(印象操作)となることを示している。
これは最高善の神を弾圧する見世物を「エンターテインメント(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」とする「最悪のショー」なのだ。
それは敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を芸術(Holy Communion)と詐称したことを示している。
確かにオマージュ(印象操作)はあるだろうがイマーゴ(真善美の回復)はない。
そして「人の聖痕の徴(人のキャリア形成)」は「最高善の神の聖痕の徴(唯一性のペルソナの確立〈信仰から形成されるオリジナル〉)」を貶め弾圧する「敵対感覚(原罪)」を狙う堕落者へ誘う扇動となるのだ。
それが日本サブカルチャーの正体でありオタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の存在である。
これは日本サブカルチャーという敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)が世界に発信した「特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)」であるのだ。

「ナウシカ」と「惣流アスカラングレー」の比較

「ナウシカの唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」と「アスカの特殊詐欺」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul.
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

ナウシカは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」として存在している。
一方でアスカは「社会的キャリア形成」の存在でありナウシカと違ってクリエーターの匙加減で幾らでも存在の捏造が可能である。
それはオマージュ(印象操作)が幾らでも可能であることを示している。
ナウシカの存在が最高善の神との関係に於いてある唯一性なら、アスカの存在は相手を完全犯罪で「騙し抜くこと」によって可能となり「オレオレ特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)」と同様の存在となっている。
ナウシカの実体は最高善の神との関係に於いて『唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)をした永遠の命の存在』となり、アスカの存在は『オレオレ詐欺に於ける特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)の役回り(受け子)のオマージュ(印象操作)の産物』に過ぎない。
ナウシカが芸術としてのイマーゴ(真善美の回復)であるならアスカはオタクのオマージュ(印象操作)である。

※握手会の「女性アイドル・タレント」も「アスカ」の存在と似ている。

「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」がクリエーターの仕事である。
それはイマーゴ(真善美の回復)の芸術制作と言われる。
しかし「キャリア形成」によるオマージュ(印象操作)の制作は特殊詐術でしかないだろう。
これは「NHK大河ドラマ」にも言えることだ。
「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を描く作品は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によっている。
しかし「キャリア形成」はオマージュ(印象操作)でしか無く、詐術として人を完全犯罪で騙し抜くことを至上とする。
ナウシカと惣流アスカラングレーの比較をしてみると、両者とも設定としてのキャリア形成はあるだろう。
ナウシカは「風使いの長の娘」であり信仰者である。
そしてアスカは小さい時に母を自殺(縊死)で亡くし幼い彼女はその現場に遭遇したことからトラウマ(心的外傷)となった存在である。
ただ彼女は死んだ母に認められ愛されるために人一倍に努力してエリートとして愚民を指導する存在となることを目指している。
彼女のエリート志向の動機は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではない。
彼女は社会的キャリア形成の産物であり敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)で騙し抜く特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)の存在を至上としている。
現代のオレオレ詐欺はこのようなキャリア形成の詐術によって可能となっている。
ここで明確なのは「信仰」と「崇拝」の違いである。
ナウシカは明らかに個人信仰を持っている。
それは自らの中に信仰の入れる場所を確保して「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を保持しているのだ。
一方でアスカの認識は社会的キャリア形成の在り方の崇拝である。
アスカは人間社会における多面的面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を演じているのだ。
そこには「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はない。
ナウシカは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の芸術作品であり、アスカは「社会的な在り方で形成される多面的面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の「キャリア形成」であり匙加減(印象操作)によって幾らでも捏造可能である。
しかし庵野秀明等はこのような「キャリア形成」の匙加減(印象操作)こそを芸術だと主張している。
それは可怪しい。
何故なら「ナウシカの唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の場所の確保にあり、もし庵野秀明がナウシカの続編を制作するとしたらナウシカは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」はなく「キャリア形成の匙加減(印象操作)による多面的面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の産物となってしまうであろう。
多面的面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)とは社会的面子(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でありオマージュ(印象操作)の産物である。
そのような詐術としてのナウシカの愛は偽りにしかならないだろう。
偽りの愛のナウシカを庵野秀明は続編として制作することを目論んでいる。
だから宮崎駿は庵野秀明にナウシカの続編の制作を絶対に赦さないのだ。
宮崎駿が嫌って当然の男が庵野秀明である。
しかし彼の社会的面子(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)がそれを表に出させないのだ。

「ナウシカ」と「碇シンジ」の比較

ナウシカはカトリック
碇シンジはプロテスタント
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul.
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

アスカに於ける社会的キャリア形成の捏造の在り方は一言で言えば「人間関係」の産物となる。
それは「人間感覚」と言う「人間関係の感覚」である。
そして先程指摘したナウシカの「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」という「最高善の神との関係」としてある。
アスカは「人間関係の感覚」でありナウシカは「最高善の神との関係」と言えるだろう。
そしてここで庵野秀明が「神との関係」の産物として創造したのが「碇シンジ」と言う存在である。
私は随分前になるが職業訓練学校へ通っていた時に知り合ったエヴァンゲリオンファンの女性から「碇シンジ」は神の子を意味する「神子(シンジ)」であるということを聞いて吃驚した記憶がある。
しかしそれも強ち嘘ではないだろう。
何故ならば庵野秀明はアスカに関しては「人間関係の感覚」の産物とし、碇シンジに関しては「神との関係」の産物としたからである。
しかしここで「ナウシカ」と「碇シンジ」を比較してみると「神との関係」に於ける在り方が全く違っている。
ナウシカの「最高善の神との関係」は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」としてあり、それはユダヤ・キリスト教神学やその「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の導きの在り方であるフロイト精神分析の対象(唯一性のペルソナの確立〈信仰から形成されるオリジナル〉)であるだろう。
碇シンジの「神との関係」は神の子を意味する「神子(シンジ)」であるが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は持っておらず、しかし「神に特別扱いされた存在」としてある。
彼の存在によってエヴァンゲリオン初号機は謎の再起動を起こし、暴走と騒がれながら「使徒」をことごとく殲滅する。
全くもって碇シンジだけの「特别な能力設定」が為されている。
これは私が敬愛する柄谷行人先生が以前指摘しておられた世界陸上競争に於ける陸上競争選手が自分の勝利を願って十字を切る行為に似ている。
「神の恵みは自分だけと願うこと」はカトリックではないのだ。
その行為は可怪しいという指摘が柄谷行人先生によって為された。
それが真にキリスト教(カトリック)であればナウシカのように〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉という「最高善信仰」の在り方がイマーゴ(真善美の回復)となる筈である。
しかしこの陸上競争選手は「自分だけが神の恵みを受け勝利すること」を祈っているのだ。
ただ自分の幸運だけを祈っている存在がキリスト者ではないだろう。
この違いはナウシカが「カトリック」なら碇シンジが「プロテスタント」となりそこに絶対的な違いが生まれてしまうことを示している。
カトリックは「最高善の神との関係」に於ける「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」としてあり、プロテスタントは「人間関係の感覚」に於いて「超特別扱い」を可能にする超人的存在を「神」と見做すことに等しいだろう。
碇シンジに於ける「神との関係」は「人間関係の感覚」の中で可能になる「超特別扱い」の存在と言えるだろう。
それは「最高善の神との関係」ではなく、社会的キャリア形成で超優遇を与える人間関係のコネクションを示しているに過ぎず、それは「最高善の神」ではなく「ネ申(ねもうす)」でしかないのだ。
「ネ申(ねもうす)」とは「人間関係の感覚」で「超優遇」を与える存在であり、それは人間関係に於ける「神」であり日本社会では「神社」の『氏神』とされる存在となる。
よって「カトリックが一神教」なら「プロテスタントは多神教」であるのだ。
秋元康からAKB48初代総監督に任命された「高橋みなみ」の存在は「碇シンジ」と似ている。
ハインリヒ・ハイネの「流刑の神々」はそのことを示している。
キリスト教の一神教は様々な土俗の神を流刑にした。
例えばアイルランドはケルト文化と言われてハロウィンを祝っている。
そしてプロテスタントは逆にハロウィンを絶対に祝わない。
この解釈によるとアイルランドはカトリックであることを示している。
そして「ケネディ」も「バイデン」もカトリックである。
それは一神教の最高善の神が至上となった世界観の中でハロウィンがキリスト教に降っていることを示している。
それによってカトリックは普遍性がありハロウィンもカトリックの祭りとなっている。
一方でプロテスタントはハロウィンを異教徒の祭りとして排他している。
ハロウィンを絶対に祝わない。
だからプロテスタントの神は普遍性の最高善の神とはなっていない。
カトリックであれば最高善の神の普遍性の下に異教徒の神は降ることになる。
それはハインリヒ・ハイネの「流刑の神々」にある通りだ。
だから最高善の神の普遍性がカトリックの示す意味である。
しかしプロテスタントにはそれがない。
異教徒との関係に拘る人間関係の感覚となっている。
これは「一神教の感覚」ではなく「多神教の感覚」となっている。
ナウシカは一神教のカトリックであり、碇シンジは多神教のプロテスタントである。
一神教の普遍性の関係と多神教の多面的人間関係の感覚の違いとなる。

フロイト「人間モーゼと一神教」
一神教と多神教
「至高の抽象化の高み」と「原始的段階に近い」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul.
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

サッカーワールドカップに感じる吐き気

それは日本人の人権無視をクリーンイメージとして演出するためのオマージュ(印象操作)が原因だ!
お前らいつから掃除夫だ!

カタールでサッカーワールドカップが開催されていた。
そこでは日本人のマナーを称賛することが行われていたことは記憶に新しいだろう。
「選手」も「観客」も称賛の対象である。
しかしそれは海外向けの日本によるオマージュ(印象操作)にすぎない。
何故日本人はそこまでオマージュ(印象操作)を行うのだろうか?
実際に掃除夫は日本で下賤の人が行う職業である。
そして日本人のマナーの悪さも実際には多々ある。
しかしこのようなオマージュ(印象操作)をこれ見よがしに行う日本人に対し一人の日本人として同じ日本人に気持ちの悪さを感じる。

※公共トイレの政治的宣伝映画だったらしい

日本国内では彼らは全く掃除夫を尊敬していないことは明らかだ。
普段は明らかに軽蔑の対象にしている。
それをこの様な世界大会の時だけこれ見よがしに自ら掃除夫をしてクリーンイメージのオマージュ(印象操作)を行い人権無視への抗議の意志すら示さない。
そのようなふざけた存在が日本国民である。
しかし其の様な現状にうんざりしている私のような日本人も多くいるということをお伝えする。
今日もNHKは欧州と違って人権無視が日本ではごく当たり前だと盛んに宣伝していた。
それでいながら欧州と価値観を共有しているとする明らかなデマゴギー(虚偽情報)を流し中国に対し欧州と連携し軍事同盟を強化しようと訴えている。
人権無視をして何処が欧州と価値観を共有しているのだ!
ドイツと日本では明らかに人権の価値観が違うではないか!
普段しない掃除夫をこれ見よがしにやってクリーンイメージのオマージュ(印象操作)をする腹黒政治でしかないのが日本国家だ。
クズだ!
だったら中国の人権無視と連携した方が筋は通る。
こういったNHKの発言は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」への「敵対感覚(原罪)」としてあるのだ。
腐ったNHK番組であり腐ったNHK(日本放送協会)である。
NHKはアンチキリストであるのだ。
"Fair is Foul, and Foul is Fair."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. "
印象操作の日本人は敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でしかないのだ!
NHKは死すべし!
毎日新聞社系は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保している。
其の違いは大きい。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul.”
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
毎日新聞社系は永遠の命(パン)である。

imago Dei 〔L.〕
神の似姿〔カトリック教会〕
〈91学術・キリスト教〉

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

イマーゴ【imago】
〔心〕子供の時に愛した人の理想像。普通は異性の親(男の場合は母親)。精神分析の用語。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

i・ma・go [iméiɡou,imáː―]
―n. (pl. i・ma・goes,―gi・nes[―ɡənìːz])
1 〖昆虫〗 成虫;〖動物〗 成体(adult).
2 〖精神分析〗 イマゴ:幼時に形成された愛する人の理想概念で,成人後もそのまま保存されているもの.
[1797.<近代ラテン語,ラテン語 imāgō;⇀IMAGE]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

イマーゴ
[英] imago
[独] Imago
個人が他者を把握する手段を方向づける無意識的な人物の原型。ユング(Jung CG)が概念化し,その後精神分析学で広く用いられている用語。無意識的表象ともいい,他者を知覚する際の期待やフィルターとして作用し,他者に対するわれわれの感情や行動を方向づけ,他者がどのように知覚されるかを決定し,部分的に対人関係を支配する。
(511090)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

オマージュ【hommage フランス】
①尊敬。敬意。
②讃辞。献辞。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

hom・mage [Fr. ᴐmaːʒ]
―n. ⦅フランス語⦆ オマージュ:芸術家・作家などへささげる敬意,またそれを表すための芸術作品の献呈. cf. HOMAGE

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

hom・mage /F ᴐmaːʒ/
—n.
敬意 (homage); オマージュ ⦅芸術作品の中で他の特定の芸術家への賛辞としてその作品の一節や表現法・設定などをそれとなく挿入・引用・暗示・踏襲すること⦆.

『リーダーズ・プラス』 研究社

hom・age [hámidʒ,ám―|hɔm―]〓
―n.
1 尊敬,敬意:〓
2 (封建時代の)臣従の礼,(臣下としての)忠順の誓い:〓
3 (2によって生じる)主従の関係(↔disloyalty).
4 (臣下としてする)奉仕行為,献上物:〓
―v.t. 〈人に〉尊敬[忠順]の意を表す.
◊[文学・著作物]Homage to Catalonia『カタロニア讃歌』G.Orwell のスペイン戦争従軍記(1938).
[c1225? 中期英語(h)omage<古期フランス語,(h)ome「家臣」(<ラテン語 homō;⇀HOMO)より]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

〈「人の謎謎」と「最高善の神の真理」について〉

これは人の創造した問題が「人の謎謎」であることと同様である。
最高善の神の創造した問題は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が「時の徴」の聖痕の徴を刻み見出すことで持って解かれる。
それは「最高善の神の真理」を示している。
しかし人の創造した問題である「人の謎謎」はその人が捏造した回答を知らなければ回答できない八百長(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)となるのだ。
〈知らなければ回答できない〉
しかし「最高善の神の真理」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で持って回答可能である。

※中学生の時に同級生が持っていた「頭の体操」で私が唯一回答できたのは「臍」の回答であった。
しかしこれは人が生まれる時に必ず持つ「聖痕の徴の受肉」であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と言えるかどうかは疑わしいがしかしやはり私が唯一回答できたのは「聖痕の徴の受肉」の「臍」であった。

最高善の神の真理を貶め弾圧するカリスマ(個人崇拝とデマゴーグ)は敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を扇動する。
そして詐欺感覚作品(捏造感覚の第二の箱船の建造)とは多神教の「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」の作品となるだろう。
それを「思わせ振り」の演出方法のクリエーターと呼んだとしてもその「創造行為」が「最高善の神の真理(聖痕の受肉)」を貶め弾圧し敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を扇動するならば芸術とはならない。
それが「オタクのオマージュ(印象操作)」の創造となっていることによって絶対に其のクリエーターは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が聖痕の徴を刻み見出す「時の徴」の芸術家とはならない。
彼らは自らをクリエーターと呼び社会的面子(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の最上位となることで「時の徴」の芸術家と称されるがそれは全くの詐欺行為である。
サタン崇拝を自分感覚とした彼らが社会的面子(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の最上位のクリエーターとなったとしても彼らが「時の徴」の芸術家であるわけがない。
しかし社会的上位の存在が「時の徴」の芸術家とされた時にそれに対する敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を自分感覚とするクリエーターが「時の徴」の芸術家の多面的面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を形成する。
其の代表はアドルフ・ヒットラーでありヨーゼフ・ゲッベルスである。
要は多面的面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のオマージュ(印象操作)として影響力(信用)を乗っ取るのだ。
では「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を自分感覚とする真の「時の徴」の「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」はどうなるのだろうか?
真の芸術作品を生み出す才能ある「時の徴」の芸術家は堕落者のカリスマによってアウシュビッツのガス室に送られるのだ。
社会的面子(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の最上位のクリエーターが「時の徴」の芸術家の多面的面子(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)として制作するサタン崇拝の作品は「思わせ振り」の「神演出」としてあり、「発行部数」や「観客動員数」を誇ることで「映画賞」や「漫画賞」を受賞する。
それは扇動としてあるだけのオタクのオマージュ(印象操作)である。
しかしそれが「映画賞」や「漫画賞」を受賞したとしても「芸術作品」と言えるだろうか?
そういった作品は「思わせ振り」の「神演出」であり中身はほぼ空っぽである。
ただ特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)で「発行部数」や「観客動員数・視聴率」を稼いだだけである。
それは最高善の神の評価(聖痕の受肉)を貶め弾圧し堕落を賛美して扇動した人の評価(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)である。
「思わせ振り」の「神演出」とはサタン崇拝を利用した作品であり「芸術信仰」はなく其の完全弾圧としてある。
芸術作品とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で制作された聖痕の徴を受肉した作品を言う。
「芸術作品」とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「時の徴」の聖痕である。
「思わせ振り」の「神演出」の敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の作品が「発行部数」や「観客動員数・視聴率」を誇ってもそれは「人の堕落」を賛美し扇動するサタン崇拝でしかない。
それはアンチキリストである。
何故なら「特殊詐欺作品(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)」であり「芸術作品」ではない。
果たしてそういった作品は「映画賞」や「漫画賞」に値するだろうか?
そういったサタン崇拝に「映画賞」や「漫画賞」を与えることは日本文化の衰退と退化、後退を示している。
最早日本には「芸術(聖痕の徴の受肉)作品」を評価する能力はないと見做すのが良かろう。
もう日本から「芸術(聖痕の徴の受肉)作品」は生まれない。
日本は終わった国であり「最高善の神の王国の到来」以外の場所で「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としての「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の生きる道はない。
「芸術作品」が生まれるのは「最高善の神の王国の到来」からである。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持つことが人の条件と成る。
それが最高善の神の王国の住人であり「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」であるのだ。
サブカルチャー(印象操作)とカルチャー(芸術信仰)の違いを一文で評すれば「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を自分感覚とするのが聖痕の徴を受肉する「時の徴」の芸術家であり、サタン崇拝を自分感覚とするのがオタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であるということなのだ。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは最高善の神への信仰としてある。
最高善の神は「間違い」であれば改めることを命令する。
それは「悔い改め」と言う姿勢であり「科学的思考」と言えるものである。
それにより最高善の神の真理を得ることは出来る。
そういった姿勢を「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」というのだ。
そして〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉で接するのが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」である。
何故なら「間違い」の「悔い改め」を攻撃することは「サタン崇拝」であるからだ。

「聖痕の徴を受肉した〈時の徴〉」writer&photo(2008/6/30)
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

Sa・tan [séitn]〓
―n.
1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓
2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名.
[900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

オタクのオマージュ(印象操作)は聖痕の徴を受肉した「時の徴」を貶め弾圧してある傲慢感覚である。
宮崎駿が庵野秀明を認めないのは庵野秀明がジブリ(時の徴)を貶め弾圧する傲慢感覚であるからだ。
鈴木敏夫が「風の谷のナウシカ」の続編に庵野秀明の起用を試みたことは彼の底が知れた行いであったと思う。
鈴木敏夫はアニメージュのオタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)だったのだ!
アニメージュはオマージュ(印象操作)であってイマーゴ(真善美の回復)ではなかったのだ。
これは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が宮崎駿にはあっても鈴木敏夫には無いことを示している。

一方サタン崇拝は「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としてある。
例えば「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は最高善の神の真理としてある。
しかし「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を貶め弾圧して劣等感覚を転倒させそれを誇る傲慢感覚」は呪文(呪術)により世界を支配できるとするものとなる。
世界を呪術(呪文)で支配できるとする感覚が「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を貶め弾圧する敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」でありそれは「呪術崇拝」となる。
そしてそういった「呪術崇拝」による世界支配は「敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の劣等感覚を転倒させそれを誇る傲慢感覚」であり世界を「偶像崇拝」として象徴し「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を貶め弾圧する。
何故なら「呪術崇拝」で世界を支配したと見做すサタン崇拝はその最高善の神の真理である「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を一切弾圧にすることで「呪術崇拝」とその象徴である「偶像崇拝」で世界をコントロールしたと見做すからである。
この人間の奇妙なそして傲慢な屁理屈(前衛詐欺)がサタン崇拝なのである。

これはフロイトの「人間モーゼと一神教」の於ける「一神教」と「多神教」の在り方と同じと言える。
それは「至高の抽象化の高み」と「原始的段階に近い」の違いとなる。
一神教は「最高善の神への信仰」であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としての「至高の抽象化の高み」である。
多神教は「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」でありサタン崇拝としての「原始的段階に近い」であるのだ。
一神教は「至高の抽象化の高み」とされ多神教は「原始的段階に近い」とされている。
またここで重要なのは多神教が「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」の段階であり敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)と言え、それはオタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)という存在のことである。
オタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)が劣等感覚を転倒させそれを誇る傲慢感覚となる在り方がここでフロイトが示した一神教に対する多神教の指摘としてあるのだ。

純粋理性批判 第二版序文
「したがってわたくしは、信仰に余地を求めるために、知識を除去しなければならなかった。」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

宮崎駿の理想は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を自分感覚とする聖痕の徴を受肉する芸術家(ジブリ)であり其の育成である。
そういう意味で宮崎駿の弟子を自称する庵野秀明は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を自分感覚とし聖痕の徴を受肉する芸術家(ジブリ)ではなく、サタン崇拝を自分感覚とするオタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であるのだ。
私が宮崎駿の代わりにそれを言う立場にあるかどうかは別にしてそれを言える力のある自称・批評家としての気概から敢えて言わせて貰えれば庵野秀明は宮崎駿の直系の弟子ではない。
庵野秀明は「アンチ宮崎駿(アンチキリスト)」なのだ。
それは「弟子の定義」とは違うだろう。
そして彼は「聖痕の徴を受肉するジブリの定義」を完全弾圧する破壊者だ。
庵野秀明の作品は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を貶め弾圧する敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であり特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)なのだ。
それは他の多くのサブカルチャー(敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))のクリエーターにも言えることだ。
其の代表格である村上隆は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を自分感覚とはせずサタン崇拝を自分感覚として開き直ったらしいがただの敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の煽動家でしかない。
彼は特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)でしかないのだ。

萩尾望都のイマーゴ(真善美の回復)

ここで萩尾望都を記しておく。
萩尾望都の「トーマの心臓」は最高善の神への信仰の傑作であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の芸術作品である。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の作品であり、萩尾望都は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を自分感覚とする「時の徴」の芸術家(聖痕を刻む)であると言える。

アニメーション芸術にはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が必要でありそれはイマーゴ(真善美の回復)と言われる。

「三鷹の森ジブリ美術館」writer&photo(2008/6/30)
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

アニメーション芸術作品が「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を貶め弾圧する敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」としてあることを厳しく禁じたアニメ制作スタジオが「ジブリ」であると言える。
それはサタン崇拝を自分感覚とすることを厳しく禁じることを示している。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を貶め弾圧する敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を扇動することでそれを自分感覚とすることを正当化する。
世界を堕落した敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)により認識することを肯定するのだ。
その「臆見の世界(サタン崇拝を自分感覚とすること)」は「最高善の神の真理(〈カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)〉を自分感覚とすること)」の下位に位置する。
堕天したルシフェルであり明らかに最高善の神の真理の下位に存在する敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の扇動なのだ。
「サタン崇拝を自分感覚とすること」を嫌悪し禁ずる芸術信仰は「最高善の神の真理(〈カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)〉を自分感覚とすること)」の世界の制作であり、「サタンの臆見(サタン崇拝を自分感覚とすること)」の世界はその下位の敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でしか無いのだ。
敵対感覚作品(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)とは「サタン崇拝の世界の制作でありオマージュ(印象操作)」である。
芸術(聖痕の徴の受肉)はサタン崇拝を嫌悪し禁ずる「真理の世界(〈カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)〉を自分感覚とすること)」である。
芸術信仰は「最高善の神の王国の到来」としてあるのだ。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とサタン崇拝の譬えは新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴」を示している。
宮崎駿がスタジオを「ジブリ」と名付けた由来の真相は聖書にあると私は考える。
宮崎駿氏が言う「オマージュ(印象操作)の嫌悪」はサタン崇拝を自分感覚とするオタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の嫌悪であり、それは「doxa(サタン崇拝を自分感覚とすること)」の世界の作品への嫌悪である。
宮崎駿氏が最も禁忌とするものである。
サタン崇拝を自分感覚とする「特殊詐欺作品(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)」は最悪の作品である。

※新世紀エヴァンゲリオンは最悪の代表

それが宮崎駿氏がオタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を嫌う理由である。
庵野秀明はオタク(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であり宮崎駿は彼を嫌悪しているのは明らかだ。
しかし宮崎駿には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」があり、それは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉である。
「勘違い」をいつまでもしているのは庵野秀明の方なのである。
宮崎駿は〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」なのだから庵野秀明に対しても「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持って接しているのだ。
この二人の関係で明らかな敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)は庵野秀明であり特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)の人なのである。
ただもう庵野秀明の特殊詐欺(完全犯罪で騙し抜くことを理想とする。)はバレバレなのだ。
〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を庵野秀明に期待しても無理かもしれない。
しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「最高善の神の王国の到来」への導きなのだ。
なんて馬鹿な庵野秀明なのだろう!
勘違い人間である。
愚か者!
私には宮崎駿がよく理解できる。
彼は真の「時の徴」の芸術家であるからだ。

「時の徴」writer&photo(2008/6/30)
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

新約聖書〈ルカによる福音書〉の「時の徴(聖痕の徴の受肉)」

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を貶め弾圧し敵対感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を賛美し扇動するオマージュ(印象操作)は劣等感覚がそれを誇る傲慢感覚である。
それを「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」へ導くメシアの行いはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が聖痕を刻みそして聖痕を見出す「時の徴」であり最高善の神の聖書となる。
それは「最高善の神の歴史」である。
「聖痕が刻まれた最高善の神の聖書」となるのだ。

過去の印象的シーンを引用するオマージュ(印象操作)とはワケが違う。

最高善の神の歴史としての最高善の神の聖書(聖痕の徴の受肉)は「時の徴(しるし)」であり〈ジブリ〉となる。

「時の徴」writer&photo(2008/6/30)
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
「聖痕の徴の受肉」
'Incarnation of the Stigmata Sign'

僕は〈宮崎駿のジブリ〉が大好きだ!
I love Hayao Miyazaki's Ghibli!
私は〈聖痕の徴を受肉した猫の友達だよ!〉
I am a friend of a cat who has incarnated the sign of stigmata!  

"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

【Browsing is free. Instead, charity donations are welcome.】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?