女が氏をあらためる日
私の嫌いな季節は梅雨だ。湿度は高いし風情のない雨は降るし知り合いは結婚をする。ジメジメとした陰気な私はジューンブライドなどという慣わしはカビでも生えて腐り散らせと感じてしまう。疎遠になった知人から郵便が届く。そこには「私たち結婚します」の文字。私に期待していることは一つ。ご祝儀を寄越せということだ。こんなご時世でよく挙式を開催しようと思ったな。人が集まらないから手当たり次第なのか。正論のような怒りと当てつけのような怒り、そして不快な湿度による怒り。どうして私の住所を知っているかは謎であったが個人情報保護のため返信もせず破り捨てた。もちろん前述の激情の発散もそこには存在した。
既にアラサー、結婚適齢期真っ只中。同い年の知人は言った。「結婚したら人生薔薇色だよ」と。「面倒な家事はしなくていいし家に帰ったらご飯は作ってくれるし何しろカワイイ嫁を毎晩抱けるのが素晴らしい」と。日本特有の家父長制を感じながらいずれ子供ができるなどのタイミングで尻に敷かれる彼の姿が容易に想像できる。一方が利己的な手段を用いれば搾取の応酬に陥るに決まっている。刹那的な幸福と引き換えにいずれ家庭内に居場所がない生き地獄を味わってほしいと切に願っている。
私は人を性的に愛することができない。理解ができない。カワイイ女性を見ても犬とか猫を愛でるのと同じような感情が沸き性的な感情は沸かない。しかしながらブルドッグとポメラニアンならポメラニアンの方が好みなのと同じように女性に対する好みのタイプというのは存在する。そのためアバンチュールには憧れはある。アセクシャルというワードを自分本位に振りかざし苦悩や甘えを言葉に転嫁している。ただただ愛されたいという自己中心的かつ幼稚すぎる価値観で恋愛結婚などできるはずがない。わざわざオブセッションな性差に落とし込むことはしたくないが恋愛に能動的なのは男性、受動的なのは女性とだと感じている。告白する割合は男が8割、女が2割だと耳にしたことがある。男性は受動的だと恋愛に発展する確率が低いが、能動的に動いてもモテない男性はインセルとレッテルを貼られてしまう一因となっているのかもしれない。私はことごとく好意を無下にしてしまう絶食系ではあるが相手を信頼さえできれば能動的に告白はしないもののそれを受け入れることが可能だと思う。なので男からアプローチを仕掛けるというのが腑に落ちない。どうしても下心が見え透いてしまい告白する男性が気持ち悪く感じてしまう。自らの男性性を激しく憎んでいる一因でもある。かと言っても女性には女性としての悩みが存在するのは明白なので所詮は海底撈月に過ぎない。
周囲が次々と結婚していき、人生の次のステージに進むにあたって私だけ取り残されているかのような感覚に陥っていた。このまま歳を重ねたら一生孤独なのではないか。部屋で野垂れ死んで腐敗した状態で発見される未来が見えてしまう。特に外傷も無く寿命で死にたてのセミと生きたまま人に踏まれアスファルトと同化しているセミとでは生理的な嫌悪感が違うのと同じでせめて早々に処理してほしいというのが望みだがそれすら叶わないかもしれない。この悶々とした感情を詳細に言語化してしまったらきっと私はより深い絶望に叩き落とされるのが本能として感じていた。そんなある日、それに近い心中を言語化している書籍に出会う。能町みね子氏の『結婚の奴』という本である。トランスジェンダーの著者が男性愛者との結婚生活に至るまでを赤裸々につづったエッセイだ。能町氏はアングラ知識のトークライブに出演していたのをちょくちょく拝見していたのでかねてより著書を繙読したかったのも一因だ。そこには恋愛感情を抜きにした手段としての結婚が綴られていた。しかしそこに行きつくまでの疑似恋愛に夢中になる紆余曲折も興味深い。日常に彩りを与えるために波長の合う人と束縛し合わずに同居をする結婚生活には心惹かれるものがあった。私は最悪同居しなくても頻繁に会わなくてもいいとも感じた。とにかくこの変化のないモノクロの日常に共に色を添え合えればそれでいい。ただ、それも贅沢な話だ。この本は結果として前向きな方面での言語化だったためサクサクと読めたが孤独に対するネガティブな怨恨が延々と書き記されていたら立ち直れないほどの追撃を受けていたかもしれないのである意味賭けに勝ったとも言える。
親の結婚についても考えてみたい。親は恋愛結婚である。子供を産むことはあまり考えていなかったと思われる。なぜなら母は子供が出来にくい体質だったからだ。しかし母方の祖父母は孫の顔が見たいと連絡を取る度に迫った可能性が高い。理由としては孫の私にすら嫁及び曾孫の顔を見たいと連絡するたびに強要するぐらいだからだ。両親が結婚して7年目に妊娠が判明した。不妊治療は受けていないと考えられる。なぜなら祖父母はデリカシーが無く野球中継を見ていても外国人選手に差別的な言動を悪意無く平然と放つぐらいなので私にそのことを伝える可能性が高いからだ。不妊の母がハプニング的に妊娠した可能性が高い。母は私に「結婚はした方がいいけど子供はその時になったらで良い」と言うぐらいだし子供の時には「私もまだまだ働きたかった」「お前がいるから趣味など出来ない」と言っていた。恐らく子供は欲しくなかったが偶然が重なり妊娠して祖父母が大喜びしたが故に産まざるを得なかっただろう。産めよ増やせよの世代には子供を作って当たり前の風潮がある。先ほど紹介した『結婚の奴』にも「子供を産まなきゃ女じゃない」という言葉に著者がルサンチマンを抱く描写があった。実際マタハラは社会問題になっている。国のお世継ぎとなれば比較にならないほどの重圧がのしかかり皇后さまも適応障害に陥った。今でも理解が追い付いていないのにその当時はマタハラという言葉すら存在しなかった。その空気感に流されて子供を作った家庭など本当に子供が欲しくて作った家庭と比べ幸福感は薄れるに決まっている。母は今でも私に「今までお前にたくさんお金と時間を使ったからそのお金と20年という時間を返してほしい」「お前を産むよりも犬が数頭いれば良かった」などと言うぐらいだから産むつもりは毛頭なかったのだろう。母が世間の常識に屈した烙印が私かもしれない。実際私が一人暮らしを始めてからは母も自分の時間が取れるようになったことで関係はそれでも当時よりまだマシぐらいには変化した。夫婦仲は明らかに良好であるためよっぽど私をストレスに感じていたのだろう。きっと私は子供が出来たら私以上の能力を求めてしまうと思う。それが教育上よろしくないことは身をもって体感しているが頭でわかっているのと実行できるかは別で、とんでもない毒親になるのが目に見えてしまう。親の轍は踏みたくないのでやはり結婚するなら恋愛結婚よりも恋愛感情を抜きにした手段としての結婚が自分に合っていると感じる。ただ、私にはどちらにしても高望みだ。