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「能力で人を分けなくなる日」を読んで①〜「開いた世界」と「閉じた世界」〜

こんばんは。
最近、「自分の話って、面白くないだろうな」と思うことがあります。
(卑下しているわけではありません笑)
どこが面白くないかというと、「断定しない」ところだと思います。
「私はこうだ」という立場が明確でない意見を聞いても面白みに欠けるし、「それで結局あなたはどの立場なの?」と疑念が湧くかと思います。
僕にとって、「断定する」というのは勇気がいることでもあります。
しかし、それが必要な場面もあるよなー、とも思います。
(またどっちつかず!)

今日、「能力で人を分けなくなる日」という本を読みました。
本の中には、「開いた世界」「閉じた世界」という言葉が登場しています。

「開いた世界」のポイントは、まず、「関係が先で、存在があと」ということ。逆に、西欧的な「閉じた世界」では「存在が先で、関係があと」。存在というのは、個人、個の存在ということです。
ー中略ー
もうひとつ大事な点は、開いた世界は成り行き主義だということ。先はどうなるかわからなくて、いろいろなものの影響を受けながら、自然に任せて、なるようになっていくという考え方。一方、閉じた世界は因果関係の世界です。物事は必ず原因があって、それに応じて結果が必然的に決まっていく。さらに、「人間の力で世界を変えていくことができる」っていう考え方も加わります。

「能力で人を分けなくなる日」

この考え方でいくと、僕の話は「開いた世界」に近いのかな、と思います。
「原因はこうで、その結果こうなりました」というより、「断定しない」「曖昧な」話し方。
本のコラムには、「茶碗が割れました」という日本語についても書かれていました。
本当は「私が茶碗を割りました」のところ、責任を曖昧にぼやかす表現になっています。

「開いた世界」と「閉じた世界」。
どちらの方が優れていることはないと思います。
(この物言いが「開いた世界」に寄っているのかもしれませんが)
大事なのは、「どちらの世界もあるのだと認識すること」ではないでしょうか。
断定が苦手な僕も、立場を明確に話すことがありますし、原因と結果を求める時もあります。

また、どちらかの世界だけにいれば安心ということもないと思います。
「開いた世界」の成り行き主義は、曖昧でいられるけれど、起こったことに対処していくことになります。
それは、予防や根本的なところへたどり着けないことでもあります。
「閉じた世界」の因果関係の中では、明確に自分の立場を示すことができるけれど、そこでは窮屈さを感じることもあります。

「開いた世界」「閉じた世界」。
どちらの世界もあり、どちらの世界にも行ったり来たりするであろう中で、どう生きるのか。
きっと正解はありません。
失敗したり後悔したりすることもあるだろうし、今までの僕もそうだったと思います。
迷うこともあるけれど、今の僕が大事にしたいのは「違うことをしないこと」という視点です。
それぞれの世界へ行き来する中で、「自分が抱いた違和感を無視せずに選択をしていくこと」を大事にしたいな、と思っています。

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