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やわらかい心を持ち続ける、と決意しました。

昨日、「君の名前で僕を呼んで」を観ました。
切ない気持ちが溢れて、朝になっても止まらなくて、「なんでこのタイミングで雨なんだろう」と理不尽に思ったりしました。
午後から晴れて、心も少し落ち着きました。
映画の中のシーンがよみがえっては、心が動いて体は止まってしまいます。

映画の感想を書くというには気持ちが消化できていないのですが、タイトルにもある通り、
「やわらかい心を持ち続けよう」
と決意しました。

人は早く立ち直ろうと自分の心を削り取り、30歳までにすり減ってしまう。
新たな相手に与えるものが失われる。
だが、何も感じないこと…
感情を無視することは、あまりに惜しい。
余計な口出しかな?
もう1つ言おう。より分かるだろう。
私は逃してしまった。お前たちが得た経験を。
何かが常に私を抑えた。または妨げたのだ。
お前の人生は、お前のもの。だが…
忘れるな。
心も身体も一度しか手にできない。
そして、知らぬうちに心は衰える。
今はまだひたすらに悲しく、苦しいだろう。
痛みを葬るな。
感じた喜びも忘れずに。

何かを感じること。
それはとてもエネルギーがいることです。
悲しみも、喜びも。

僕は高校生のとき、傷つかないための予防線を張って生きていました。
そういう生き方で得られる喜びは、中途半端なものでした。
当たり障りのない付き合い、空元気を振る舞うことは、確かに傷つかないかもしれない。
けれど、そこに突き抜ける喜びはないのです。

感情を殺すこと、無視すること、葬ること。
こうやって書くと、「そんなことするはずない」と思うかもしれませんが、きっとそうする方がラクできる場面はあるのです。
傷つきたくないという思いだって湧くだろうし、
悲しみから一刻も早く抜け出したいと思うこともあります。
そんなとき、感じることを手放してしまう。
それは、あまりに惜しいことなのです。
感じられるはずの喜びを逃してしまう。
感じられるはずの悲しみも逃してしまう。

どんな生き方が豊かなのか、というのは人それぞれ尺度があるものだと思いますが、僕は、
「感情の振れ幅が大きい人生は豊かだ」
と思います。
喜びも悲しみも深く味わえること。
悲しみの最中にいるとき、悲しくてやりきれないものだけれど、それは豊かな時間です。
綺麗事のように聞こえるかもしれません。
けれど、少なくとも僕の今までの人生の中では、中学生の頃、とても苦しい時間を過ごしたあのときが、一番豊かだったと思うのです。
それは、その苦しい時間を乗り越えられたからではなく、「苦しい時間を苦しいまま過ごせた」からなんだな、と思います。

心は衰える。
ならば、心は鍛えられるのです。
僕は、「やわらかい心を持ち続けよう」と決意しました。
心を鍛えるとは、衝撃をはね返せるということではなく、心が感じる幅を制限しないということです。
「やわらかい心を持つ」ということです。
傷つかないように予防線を張ったり、べき論から生まれる表情を纏ったりするのではなく、
素直な、むき出しの心を世界に晒したいな、と思います。
これは少しだけ綺麗事になっているかもしれません。笑
けれど、むき出しの心を世界に晒すこと、その練習はやり続けられます。
思い切り自分の感情を味わえる。
そんな時間、場所を自分へ用意する。
受動的なところからスタートしたとしても、それはきっとリアルな世界へ繋がっています。

世界の喜びを思いきり感じるため。
新たな相手に与えるものを失わないため。
僕は、やわらかい心を持ち続けたいと思います。

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