読書会 『The Catcher in the Rye』 についての覚え書き

はじめまして。ひいらぎ読書会のきたがわと申します。普段はTwitterで読んだ本のことなどを呟いているのですが、少し長い文章が書きたくなって、こちらを登録しました。よろしくお願いします。

今月の読書会では、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(野崎訳)』を読みました。興味深い指摘や考えたことがいくつかあったので、忘れないように書き留めておこうと思います。
 以下、作品の内容に触れますので、未読の方は注意してください。また、作品の解釈については、読書会メンバーときたがわの勝手な考察です。この点、ご了承くださいませ。

① 『ライ麦畑でつかまえて』という翻訳タイトルについて

『The Catcher in the Rye』という原題からすると、この翻訳には違和感があります。原題は主人公のホールデンが妹のフィービーに言った台詞、

”I’d just be the catcher in the rye and all(ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ)” 

から採ったものです。ホールデンは、ライ麦畑という無垢な世界からこぼれ落ちる子供たちをキャッチ「する人」になりたいんですね。ところが、『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルは、キャッチ「される人」になりたいという風に解釈できると思います。翻訳者の野崎さんがこの点に気づいていないはずはなく(現に上の台詞は、「ライ麦畑のつかまえ役」と訳していますし、これをそのまま本のタイトルにすることもできたはずです)、長年気になっていました。少し考えてみます。

 学校を辞めることになったホールデンは、歴史のスペンサー先生や国語のアントリーニ先生、その他多くの大人たちと触れ合い、その度に失望します。無垢なるもののキャッチャーであるべきはずの大人たちが、むしろそれを損なう人たちであった事実を突きつけられ、打ちのめされるのです。ゆえに、せめて自分は無垢なるもののキャッチャーでありたいと願い、上記の台詞を言うに至ったのだと思います。
 しかし、大人たちとの触れ合いの中で、「こいつも違う、こいつも違う…」と選別を繰り返すホールデンの姿からは、どこかに無垢なるものが保たれた世界があるはずだという希望と、くり返される失望から「誰か俺を救ってくれ」という叫びのようなものが感じられます。訳者の野崎さんはホールデンの心の叫びに思いを馳せて、『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルをつけたのではないでしょうか。


② catchは本当に救済か?

上記のように、catchすることを願い、catchされることを願ったホールデンですが、次はcatchが本当に救済に繋がるのかを考えてみたいと思います。
 まず、ライ麦畑のキャッチャーになりたいとホールデンがフィービーに告げるシーンを引用してみます。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない ー 誰もって大人はだよ ー 僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ ー つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。」

ホールデンは、無垢な子供たちを守るために、彼らをがしっと捕まえたいんだと言っています。ここで、catchという概念の達成には、対象に「触れる」という行為がどうしても必要になります。

 フィービーにこう告げたあと、ホールデンはお世話になったアントリーニ先生夫妻のもとを訪れます。先生と過ごす落ち着いた時間の中で思わずあくびしてしまったホールデンに、先生は優しく微笑んで寝床の準備をしてあげます。ベッドで眠るホールデンですが、異変に気付いて目を覚まします。

 それからある事が起こったんだよ。そいつは口にするのもいやなことなんだ。
 僕はいきなり目をさました。何時かも何もわかんなかったけど、とにかく目をさましたんだ。頭に何か、人間の手みたいなものがさわったような気がしたんだよ。いやあ、驚いたね。僕はほんとに胆をつぶしたな。それが実は、アントリーニ先生の手だったんだよ。先生が何をしてたかというとだね、真暗な中で、寝椅子のすぐそばの床に坐って、僕の頭を、いじるっていうか、撫でるっていうか、そんなようなことをしていたんだ。

この行為を「変態っぽいこと」と捉え、本能的な恐怖を感じたホールデンは、慌てて先生のアパートを飛び出します。しかし、少ししてからそれは「別になんの意味もな」かったのかもしれないとも考えます。
 この小説はホールデンの一人称で語られるため、アントリーニ先生の行為の真意は分かりません。邪な気持ちがあったのかもしれないし、疲れて眠るホールデンの無垢な表情に心を動かされ、思わず手を触れただけだったのかもしれません。そしてもし先生の気持ちが後者ならば、そこにはホールデンのinnocenceを守りたいという気持ちがあったのかもしれません。
 であるとすれば、この展開は悲劇です。「触れる」という点で、アントリーニ先生の行為とホールデンの語る catch という概念は繋がっています。よって、ホールデンが願った “The Catcher in the Rye” という命題そのものが、innocenceを破壊する行為であるかもしれないのです。

 ですが、このような構造は世界に数多存在すると思います。誰か(何か)のためにと信じて行う行為が、取り返しがつかないほど誰か(何か)を損なってしまうということが。


③救済は存在しないのか?

ではinnocenceの救済は存在しないのでしょうか。もう少し考えてみます。
 救済を信じて彷徨い、その度に打ちのめされるホールデンですが、妹のフィービーにだけは心を開きます。フィービーとの触れ合いがこの物語の光明であることは、多くの読者が感じることであろうし、私もそう思います。

 アントリーニ先生の家を飛び出して街を彷徨うホールデンは、家を出て西部に行くことを決意します。でも最後にフィービーを一眼見ようと、彼女に手紙を書いて博物館で待ち合わせます。そこに彼女は大きな旅行カバンを持って現れます。

「そのカバンには、いったい、何が入ってるんだい? 僕は何にも要らないよ。このまま出かけるんだから。」(中略)
 彼女はカバンを下におろすと「あたしの着る物よ」と、言った。「あたしもいっしょに行くつもりなの」

彼女の宣言を聞いて、ホールデンは驚きます。

彼女のその言葉を聞いたとき、僕はもう少しでぶっ倒れるとこだったね。誓ってもいいけど、本当なんだ。少しめまいがして、また気が遠くなったりするんじゃないかと思ったな。

ホールデンはフィービーの宣言を撥ね付けますが、彼女も譲りません。

「お願いよ、ホールデン。お願いだから、あたしも行かせて。あたしは、とっても、とっても、とっても ー 兄さんには、ちっとも ー 」
「君は行くんじゃない。もう、黙るんだ! そのカバンをよこして」僕はそう言って、彼女からカバンをとり上げた。もう少しで彼女を撲るとこだったな。

ホールデンの剣幕に、フィービーは泣き出します。そんな彼女の涙に絆され、ホールデンは家出を断念します。

「僕はどこへも行きやしない。気が変わったんだ。だから、泣くのをやめて、おだまり」

ライ麦畑から落ちそうになるホールデンを、ぎりぎりのところでフィービーが繋ぎ止めたのです。ホールデンの旅の終わりを告げるこのシーンは、私が最も好きなシーンのひとつです。
 では、彼女はいかにしてホールデンを救済したのでしょうか? それは「受け取る」という行為によってだと思います。最初に家に帰ったときに、ホールデンはフィービーに買ったお土産のことを話します。

 それから僕はレコードのことを話したんだ。「あのね、君にレコードを一枚買ってあげたんだよ」そう僕は言った。「ただね、うちへ来る途中で、そいつをこわしちゃったんだ」そう言って、僕は、例のかけらをオーバーのポケットから取り出して彼女に見せたんだ。「酔っ払ってたんでね」
 「そのかけらをちょうだい」と、彼女は言った。「あたし、しまっておくわ」

またホールデンは、1ドルで買っていつも被っていた赤いハンチング帽を彼女に渡します。

それから、例のハンチングをオーバーのポケットから取り出して、彼女にやったんだ。彼女はそういうヘンチクリンな帽子が好きなんだよ。彼女は受け取ろうとしなかったけど、僕は無理やり受け取らせてやった。

割れたレコードのかけらも、1ドルのハンチングも、はたからみれば取るに足らないものです。ですが、ホールデンにとっては想いのこもった大切なものなのです。ですから、割れて粉々になったレコードも捨てずに持ち帰ったのだと思います。
 多くの大人は「モノ」としての価値に目が行き、そこに込められた人の想いに気づきません。一方でフィービーは、そのことをちゃんと分かっているのだと思います。レコードのかけらやハンチングを受け取ることが、ホールデンの心を受け取ることだということを。
 赤いハンチングはこの後ホールデンとフィービーの間を行ったり来たりします。そこには二人の心の交流があり、それによりホールデンは少しずつ癒されてゆきます。

 物語の最後、回転木馬に乗るフィービーを見ながら、ホールデンは思います。

子供たちはみんな例の金色の輪を掴もうとしてるんだ。フィービーもやっぱし同じことをやってたんで、僕は木馬から落ちやしないかと心配でなくもなかったけど、何も言わず、何もしないで、黙ってやらせておいた。子供ってものは、かりに金色の輪なら輪を掴もうとしたときには、それをやらせておくより仕方なくて、なんにも言っちゃいけないんだ。落ちるときには落ちるんだけど、なんか言っちゃいけないんだよ。

ここでホールデンはようやく「Tne Catcher in the Rye」という幻想から解放されたのだと思います。
 「責任」とか「義務」とかいうことばに捉われて、どうしても我々は「見つめる」とか「受け取る」いう静的・受動的な行為が苦手です。ですが、そのように静かな行いこそが、ある種の救済に繋がる状況があるのではないでしょうか。

 catcherという呪縛から解き放たれたホールデンの心に、ようやく平穏が訪れます。

フィービーがぐるぐる回りつづけるのを見ながら、突然、とても幸福な気持になったんだ。本当を言うと、大声で叫びたいくらいだったな。それほど幸福な気持だったんだ。なぜだか、それはわかんない。ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、回りつづけてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せたかったよ。

木馬に乗るフィービーを、雨に打たれながら見つめるホールデンくんの姿は、何か大切なことを我々に語りかけてくれているように思えます。(終)


思わぬ長さとなりました。それだけ力のある作品ということでしょうか。最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。