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8:まだ、見れない。

 感情が昂っていたのかわからないけれど、その日はどうにも家に帰ろうという気持ちにはなれなかった。もう少し話さないかと桜木を誘うと、彼女は二つ返事で応じてくれた。けれど僕にはこれといって話す話題なんてものはなかった事に誘ってから気付き、沈黙が続いた。時刻は午後七時。どこの家庭からも夕食の香りがふわふわと漂ってくる。そうか、もうこんな時間なのかと、話すこともないのに桜木を引き止めたことに僕は強い罪悪感を感じていた。
「ねぇ、葵葉君はさ。」
沈黙を破り、彼女は少しバツが悪そうに僕に尋ねた。
「さっき、自分の名前、好きじゃないって言ってたけど、どうして?私は本当に素敵な名前だなって思うけど。」
その問いに僕は少し間を置いてゆっくりと答える。
「まぁ、そんなに大した理由なんかじゃないよ。小さい頃に、よく名前を馬鹿にされたことがあってさ。ほら、葵葉なんて名前、男っぽくないでしょ?どうしてこんな名前にしたんだって、よく母さんを困らせてしまったんだ。だから、好きじゃない。」
こんな名前捨ててやると目の前で叫び、泣かせてしまったこともあった。今でもよく覚えている。最も、今は別の理由で泣かせてしまっているわけだが。
「そう、お母さん思いのいい子だったのね。」
「そうかな、周りにそう思われるように振る舞ってただけなのかも。昔はいい子だったって、今でも言われるから。」
「もしかして、嫌なこと思い出させちゃった?」
「あ、そういうわけじゃないんだ。気にしないで。」
会話が途切れ、再び沈黙が忍び寄る。思えば、蓮以外の人とこうして面と向かって話をするのはいつぶりだろう。しかも女性とだ。そんな記憶は遡るまでもなかった。だって、なかったのだから。
 
 そんなことを考えていたら、ここに来るまでに読んでいた植物図鑑が鞄にしまい込まれているのが目に止まった。花、か。
「あの、桜木、さん。」
両の手で図鑑をしっかりと掴み、片言になりながら話しかける。初めて女性に話しかけた。
「僕に、花のこと、教えてくれないかな。」
それは、僕が彼女のことをよく知りたいがための口実だった。これまで花というものに一切の関心を持たなかった僕の突然の心変わりを、その時彼女は不思議に思ったに違いない。不審とすら思ったかもしれない。それでもよかった。僕は、僕を知るために、桜木弥生を知らねばならないと思ったのだ。

 「まさか君の方から言ってくるなんて。驚いたな。もしかして、何か理由とかあるのかな?」
僕の真意を探るように彼女は尋ねる。しかし深く追及はせず、くすくすと笑いながら
「でも、少しでも興味を持ってくれたなら嬉しいな。本当に。いいよ、何が知りたい?」
その表情は無邪気にはしゃぐ子供のようで、その瞳は燦然と輝く太陽のようだった。僕にはまだ君は眩しすぎるな、そう心で呟き、僕は彼女の花の話に耳を傾けた。

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