数学と哲学と創作の関係性
毎日本をタダで配っている古本屋です。色々な本(たまにDVDやCDも)を出しているのでよかったらチェックしてみてください。
餅を禁止せず若者の活動を制限する「老人の余生」過保護社会
「若者の未来<老人の余生」という不等式が成り立つ社会だと、未来を軽視されてきた若者は当然自分が歳とった時に余生にしがみつく。どこかで人生においての「幸福」の帳尻を合わせなければならないからだ。
それがこの負の連鎖を脱出することを無理ゲーにしている。
こういう問題を解決するには政治以上にマインドが必要。
政策でマインドを誘発することはできるが(安倍政権がしきりに言っていた財政出動、金融緩和とはそういうことだ)、走ることを知らないのに「よーいドン」と言っても走り出せない。マインドは政治より先立つもの。
マインドを醸成する創作
そういうマインドを醸成することが漫画や小説、ドラマや映画など、創作の社会的な意義だと思っている。
サンテグジュペリや手塚治虫が広く永く支持されるのはその点だと思う。彼らは生命や他資源の剰余を求めることの馬鹿馬鹿しさを説いた。
本来、資源配分という量的なものを扱う数学に帰結する問題だとは思うが、大半のヒトは数学的思考ができない。これは人類史において「剰余」の概念がまだ浅いことに起因するので仕方ない(人類史上、農耕以降の歴史はせいぜい10~20分の1程度。その程度の期間ではヒトの脳は「労せず数を扱える」ようには再設計されない)。そこで創作がエッセンスだけを人々に伝える。或いは話を別の価値観/軸にすり替える。
昨今でも学術書を漫画にしてわかりやすく解説した本は多く、そういうことなんだろう。その手の漫画を「創作」と呼ぶのかは微妙だが、少なくとも人々は創作に対しては心理的ハードルが低いので創作と同じ手法を用いればハードルを同じくらいのところまで下げることができるというのはわかる。
創作の源泉となる哲学
そうした創作より更に先に立つもの、要するに創作の種になるもの、それが哲学なんだと思う。
古代ギリシャでプラトンが作った哲学の学校アカデメイアの門には「幾何学を修めた者以外はこの門をくぐってはならない」と掲げられていたことは、これらのことを考えると非常に納得できる。
つまり、社会というか集団の問題は大抵資源配分の問題であり、それらを解決する指導者や、指針を提示するには数学的思考が必須であるということ。
日本が哲学不在と言われるのは古代においては相対的に資源豊富だったことが少なからず影響しているだろう。
資源配分でカリカリする必要性が低かったのだ。
日本の素晴らしさを誇張する人の根底にはこの思い込みがあるのではなかろうか。今でも資源豊富な日本と思っているが、世界が求める資源は既に変わってしまった。
まあ、水は今後資源としての価値は上がる可能性があるが。
哲学の話に戻ると、「文系/理系」をはじめとする「専門分化」により一部の学問から数学的思考が切り離されてしまった為、哲学からも数学的思考が消え失せ、現実世界での実効性を失い、浮世離れした人々の夢想のようになってしまっているのではないだろうか。
そして哲学無き創作も新しい世界観を提示するものではなく、オタクに迎合するだけの陳腐なものになった。
Twitterのタイムラインにちょいちょい流れてくるオタクみたいな一部の医者兼小説家(コロナで医者にスポットライトが当たって思ったんだが医者って小説家兼ねてる人多くないか?)が口々に「小説は娯楽」という主旨のことを言うことからも、この理論はかなり的を得ていると思う。
彼ら自身、創作が社会に実効性があるなどと信じてはいないのだろう。
彼らにとっては創作は娯楽でしかないのかもしれないが、俺が若かった頃に夢中になった創作、というか音楽、もっというと70年代後半のUKパンクロックは少なくとも娯楽ではなかった。
むしろ、俺を枯渇させた。
世界をカラーとモノクロにハッキリと分けた。
それは己の価値観を変える哲学だった。
実際、イギリスのパンクロックはアナキズムを標榜し、思想の濃度はさておき、マルクス主義からの影響も大きかった。
不要な断りかもしれないが、今も頭の中がそのままということではない。
あくまでも哲学が源泉となった創作は社会、市井の人の思考、思想、美学に大きく影響するという実例だ。
と、とりとめなく書き出したが、そこそこの途中式が書けたのでまとめると、
専門分化による数学軽視
↓
哲学の実効性喪失
↓
創作の陳腐化
↓
美学無き社会
↓
恥も外聞もない老人
↓
それを見倣う次世代
↓
終
制作・著作
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